戦後70年という節目を迎えた。
先の大戦を直接知っている人たちの高齢化が進み「70年」が証言の残せる最後の節目と言われている。
そんな中、同じ「道北圏」でも中々訪れる機会が無い稚内に行ってきました。

樺太は半島ではなく独立した島であると、1809年に日本人で初めて確認したのは間宮林蔵でした。ここではアイヌ・和人・ソ連人が雑居していたと言われています。

1875年、「樺太・千島交換条約」で、樺太はソ連領、千島列島は日本領とハッキリ定められました。

1905年、日露戦争に勝利した日本は「ポーツマス条約」によって北緯50度以南の樺太島(南樺太)を日本領としました。1940年ころには40万人以上が住んでいたと言います。

1941年、日本とソ連は相互不可侵などを定めた「日ソ中立条約」が締結されたが、1945年8月9日、ソ連はこれを一歩的に破棄して対日本戦参戦して、満州・南樺太などに侵攻しました。
日本はアメリカによる広島、長崎への原爆投下なども重なって、8月15日「ポツダム宣言」を受諾した日本は戦闘行為を停止しましたが、ソ連軍の侵攻は続き、多くの日本人が犠牲になりました。
その中に、真岡郵便電信局事件で命を落とした若い女性たちがいます。

1945年8月20日、真岡郵便電信局に連絡業務のため居た電話交換手12人のうちの9人がソ連軍の侵攻に際して、青酸カリを用いて集団自決しました。

樺太で亡くなったすべての日本人を慰霊するため、稚内公園に慰霊碑「氷雪の門」が建てられました。左右に8メートルの(望郷の門)、そのあいだに戦争で受けた苦しみの象徴である2.4メートルの女性の像があります。
また、氷雪の門そばには9人の女性電話交換手慰霊する「9人の乙女の像」も建てられています。

終戦からちょうど70年「氷雪の門」と「9人の乙女の像」を訪れて往時に思いを馳せた一日でした。

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樺太で亡くなったすべての日本人を慰霊するため、慰霊碑「氷雪の門」(合掌)左後ろに見える二艘の船は、「利礼航路」のフェリー。手前大きく見えるのは稚内港にもうすぐ到着。向こうは利礼に向かっています。

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「皆さん これが最後です さようなら さようなら」の文字が心にしみる。「戦争を再び繰り返しまじ」あらためて思う。


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高台ある稚内公園から望む稚内市街。中央に見えるのは、稚内港その左には「稚内港北防波堤ドーム」が見える。

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間もなく稚内に到着する利礼航路フェリー