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この曲の動画を発見したとき、あれ、1982年になぜザ・タイガースがいるの?と思いました。ザ・タイガースは1971年に解散していますので。
そしたら『ザ・タイガース同窓会』ということで、この曲が発売されたそうです。そういえば、そんなことがあったな、なんて思いました。
動画を観たら、皆若くてかっこいい!特に沢田研二は、その当時大スターで、出す曲出す曲が大ヒットでした。沢田研二が一番光り輝いていた時代ではないでしょうか
この曲のメインボーカルは、ジュリーではなくて、加橋かつみです。
作曲者は森本太郎で画像の中央の人ですよ
懐かしいと思った人はカッチとお願いします
加橋かつみがボーカルで大ヒットした曲が、「花の首飾り」ですね、オリコン1位になり、その当時の人気は凄かったです。
ザ・タイガース
ザ・タイガースの原型は、瞳みのる、岸部修三(岸部一徳)、森本太郎、加橋かつみの(沢田を除く)4人で1965年6月に京都市で結成された「サリーとプレイボーイズ」である。
瞳、岸部、森本は京都市立北野中学校の同級生(瞳と森本は小学校も同窓)で、加橋は京都府立山城高等学校夜間部で瞳の2学年下だった。
彼らは1964年ごろから集って京都の四条河原町界隈で遊ぶようになった。
1965年1月に大阪で開かれたベンチャーズのコンサートに4人で出かけたことがきっかけでバンド結成へと至った。
当初はベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていた。
しかし、ビートルズなどのリバプールサウンドの影響もあり、森本らは専属ボーカルの必要を感じるようになった。
4人は、四条河原町のダンスホール「田園」に出演していた「サンダース」でボーヤ兼ボーカルだった沢田研二を勧誘する。
1966年11月9日、東海道新幹線で上京。
3日後、ポリドール・レコードのオーディションに合格し、レコード会社が決まる。
11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。
沢田は「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べている。
すぎやま自身は1987年に、「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している。
1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」でデビューする。
色つきの女でいてくれよ
ザ・タイガースの楽曲で、通算17枚目のシングルである。
1982年2月5日に『ザ・タイガース同窓会』オリジナル盤として発売。
作詞:阿久悠 作曲:森本太郎
『コーセー化粧品』春のイメージソングであり、テレビCMにはザ・タイガースも出演した。
1970年の「都会」以来12年ぶりにオリコンチャートトップ10にランクインした。
『ザ・ベストテン』では、ザ・タイガースとして唯一のランクイン曲となり、最高位2位・10位以内は10週連続ランクインした。
加橋かつみがリードボーカルとしてAメロ・Bメロを、沢田研二がサビを担当した。
wikipedia
ふと思ったのですが、沢田研二てどうしてジュリーというんだ?
調べたら、沢田研二が女優のジュリー・アンドリュースが好きで、ジュリーでどうだと提案して採用されたそうです。
ジュリー・アンドリュースは、世界中で大ヒットした映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主演を務めた女優です。
岸部は(リトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」)、瞳は(キューピーに由来する「ピー」)、森本は(本名に由来する「タロー」)とされた。
3人とも従来からメンバー間で使われていた愛称だった(岸部と瞳は京都時代に自然につけられた)。
一方、沢田は、女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」と自ら名付け、加橋は、トッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と名付けられた。
ザ・タイガースという名前も阪神タイガースと若虎から来ているとは、調べてみて納得しました。
ザ・タイガースのヒット曲も掲載します。
花の首飾り
君だけに愛を
モナリザの微笑
シーサイド・バウンド
シー・シー・シー
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