ITスペシャリストが語る芸術 より引用

ゲーテは、「何もしないよりは、この世で最低のことでもやった方がいい」と考えていたようだ。私は、高校生の時、こう書かれているのを見て、それが忘れられず、ずっと覚えている。 だが、それが本当はどういう意味か気付いたのは最近のことだ。
もう20年近くも前に、栗山天心さんという、イケメンの学習塾経営者がいて、事業家として人気があったが、彼の著作をAmazonで見ると、最後の本が1990年となっている。
彼は、徹底した行動主義を説いていた。
「歩かぬ犬は棒にも当たらぬ」(まず歩け)
「棚がなければボタモチ落ちず」(棚くらいは作れ)
「百見は一験にしかず」(一回やれば分かるんだ)
といった、彼の哲学を簡潔に表した独自の諺をよく覚えている。
彼は、行動そのものより、行動する決意を重視していたのだと思う。
上を見ても分かる通り、そう無茶な行動は要求していない。
「思い立たねば吉日は来ぬ」というのも、決意の大切さを示した彼の作だ。何も見なくても覚えている。
彼は、どんな行動にも意味があると述べていた。
では、それはどんな意味だろう?
私は、自分がひきこもりでニートだったから分かるが、ニートは退屈なものだ。
そして、ニートになっても、何もしないということはなく、何かするものだ。
ニートがソーシャル・メディアを使う場合も多くなっているだろうが、コンピュータ・ゲームをやるという人もまだまだ多いだろう。1日中ゲームをやっている者もいるに違いない。
で、ゲームが面白いかというと、確かに今のゲームは面白く作られているから面白いと思うが、面白くなくてもやるのだ。
私がニートだった時は、ゲーム機やパソコンを持ってなかったし、買うお金もなかった(買ってもらえなかった)。まあ、ゲームというなら、ゲーセン(ゲームセンター)が主流の時代だった。ゲーセンも、少しお金があったら行くこともあったが、あまり雰囲気が好きでなかったので(そもそも人込みが嫌いだ)、そう多くは行かなかった。
それで私は、ノートと鉛筆で出来るひとり遊びを考案した。どんなものかは書かないが、面白いかというと、絶対に面白そうにないものだ。しかし、ノートはたちまち何十冊にもなった(ノートを買うくらいのお金は親にもらえた)。
このように。どんなつまらない、馬鹿みたいなことでも、何かせざるを得ないのだ。
『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ハルヒを退屈させると世界は危機に陥りかねないので、古泉一樹はハルヒが喜びそうなイベントを起こし、長門有希も、ひそかにそんなことをしていた。
ハルヒはそれを顕著に示す少女だったが、退屈とは辛いものである。
一方、精神分析学者の岸田秀さんのように、自分がものぐさであることを完全に認め、1日中、ベッドの中で過ごせると言う人もいる。
『ゴドーを待ちながら』で知られるノーベル賞作家サミュエル・ベケットもそんな人で、何をするのも面倒で、出来るだけ何もしない人だったらしい。ノーベル賞といえば、彼は、その授賞式にも、「面倒臭い」という理由で行かなかったくらいだ(受賞は取り消されなかったが)。
まず、普通の人は、特に若いうちは、何かやらずにはいられない。
それがなぜかといいうと、何もせずにいると、身体を動かしたいというよりは、精神的に参るのだ。
退屈だと、頭は余計な思考を次々に生み出す。
よく、手作業をしている時に、「手がお留守になってるよ」と言われるのは、考え事をしている時だ。それも、大抵は、あまり良い考えごとではない。心配事とか、妄想めいたことが多いに違いない。そんな考え事をすると、それが頭脳を占領し、結果、まともな活動が出来なくなる。
手塚治虫さんの『どろろ』という漫画で、悩んでいる百鬼丸に、盲目の法師が、「人間、くよくよしてると、小便一つ、まともに出来なくなるぜ」と言う。クヨクヨするとは、余計なことを考えるという意味だ。
つまり、余計なことを考え過ぎると、それが妄想になり、妄想は頭脳を占領し、頭脳は正常な働きをしなくなる。それが極端に進むと、精神を病む。
人が何かしないと苦痛になるのは、そういった状態になるのを防ぐ、頭脳の保護機能であるのだろう。
ゲーテが、「どんなつまらないことでも、やった方がいい」と言った理由もこれだ。
とにかく何かやっていると、その間は、余計なことを考えずに済むのだ。
それで精神が病むのを止められる。
「戦いが起こればいい。相手は誰だって構わない。そしたら、何も考えずに済む」
『灼眼のシャナ』より。シャナの言葉~
ところが、岸田秀さんやベケットのような特別な精神構造を持つ者は、退屈でも、余計なことを考えないのだ。全くとは言わないが、普通の人よりはるかに妄想をしないのである。
彼らは、妄想が進むとどうなるかを直感的によく知っている。『ゴドーを待ちながら』などは、まさに、妄想が過度に進んだ人達のお話だ。
岸田秀さんとなると、人の全ての思考は例外なく妄想だと言っているようなものだ。そんなことに気付く彼は、普通の人とは異なる精神形態を持っているに違いない。余計なことを考え始めたことに気付いたら、自分で思考をストップさせることができるのだろう。
彼は、人生にいかなる目標も持っていないと述べていた。もしそれが本当なら、確かに、彼は妄想せずに済んでいるはずだ。それは、悟った人の態度である。
ところで、ニートに限らないが、ゲームを延々とやるのは問題がある。
ゲームというのは、実際には行動していない。
当たり前だが、格闘ゲームをやったって実際に格闘しているのではない。そんな時の思考は、無駄な考えをしている時の思考に近いに違いないのだ。だって、ゲームの世界の、非現実的で不自然なものごとを脳が処理しているのだ。それが妄想でなくて何だろう?
電子メールやツイッターもそうだ。これらをやり過ぎると、必ず精神的に苦痛を感じるはずだ。長時間やるメールやツイートなんて、無駄な考えのものが多いに違いないのだ。
私も、ノートと鉛筆で、あることをやっていた時も、やはり苦痛だった。それは、ゲームやツイッターよりは創造的な活動であったが、やはり、本当の行動とは、予期できない出来事を体験できる、つまり、冒険的なものでなければならない。そうでないと、余計な考えが起こるのを防げない。そして、ゲームやツイッターとなると、それら自体が、無駄な考えを起こすのだ。
だが、私の場合、何かきっかけがあったのだろうが、小学生の女の子達が、毎日遊びに来るようになった。子供の行動というのは、予測ができないことが多いので、それまでと比べ、はるかに精神の健康を保つことができた。
しかし、学校では、子供の行動は著しく制限される。学校での戒律である「前に倣え」の通り、皆が同じことをやらないといけない。不自然で一律的な行動は、子供にとって行動を抑えられていることであり、いかに子供でも無駄なことを考えるようになる。教師も、予期せぬ出来事を嫌い、子供を押さえつけるばかりで必要な行動が出来ず、妄想を起こし、不要なことばかりするようになる。そして、子供も教師も精神を病むことになるのだが、それは十分に証明されているはずだ。
良寛さんが子供を集めて遊んでいたのも、子供好きということもあるだろうが、無意識に、精神を保護しようとしていたのかもしれない。坊主って、退屈な面もあるのではないかと思う。 我々は、精神を病ませたくなければ、余計なことを考えない状況を持たねばならない。つまり、何かしないといけない。
お釈迦様が、「妄想するなかれ」と言い、イエスが、「明日を思い煩うな。明日のことは明日に考えさせておけ」と言ったのも、余計なことを考える害悪を言ったのだろう。
天才発明家の中山正和さんは、賢くなりたいならクヨクヨするな、頭の無駄遣いをするなと言った。
そのためには、やはり、何かした方が良い。
それは、ゲームやツイッターといった、かえって余計なことを考えるようなものであってはならない。
人の役に立つようなものが一番良い。
解剖学者の養老孟司さんが、よく、「心身を健康に保つには、身体を使って働け」と言われていたが、それは全く当を得ている。
涼宮ハルヒは、学園際で、軽音楽部のボーカルが歌えなくなっていたのを見て、代役を買って出、それを見事果たした。しかし、それで感謝された時、なぜかハルヒはイライラしていた。
キョンは、それは、ハルヒが人に感謝されることに慣れていないせいだと考えた。
感謝されるかどうかは分からないが、やはり、人のためになることをやるのが一番である。
あれから、ハルヒがもっとそんなことをやるようになったら、彼女の精神は健康になっていっただろう。しかし、古泉のせいで、ハルヒは不健全な刺激ばかり得ている。著者の谷川流さんは書いていないが、きっと古泉の「機関」は、頭が悪いか、悪意があるのだろう。
ハルヒの退屈を止め、なおかつ精神を健康的に保たせたいなら、人の役に立つ活動をするように導けば良い。ただし、自然にね。
何もしないと、沸き起こる余計な考えは妄想となり、心を苦しめ、それを放置すると、精神を病むこととなる。歳をとってからそうなると、かなり厄介なはずだ。
ただし、余計なことを考えることになってしまうことをやってはならない。過度のゲームやツイッターとは、そのようなものだ。
スポーツ観戦や映画鑑賞といった、受身のものも、そればかりだと、頭の中で無駄な想念が多く起こる。
美食やエロチックなことに耽ると、これはもう、妄想がとめどなく広がるだろう。
やはり、身体を動かして働いたり、人の役に立つことをするのが最上である。