Delightful Days ~どこまでも自分を磨いていこう!~



最近遠ざかっていた「バレンタインデー」



この特殊なイベントは、女の子が思ってる以上に男の子はそわそわしてるようですね。


私も今年は参戦してみようとチョコを3つ買いました。



「本命」 or 「義理」?



答えは・・・どれも「本命」ではなく、かといって「義理」チョコでもないんです。




単にこれは捉え方の問題ですが、


私は”義理チョコ”という言葉があまり好きではありません。



だって「義理」って言っちゃうと


「あんまりあげたくないけど、付き合い上お世話になってるからあげる」


みたいなプチネガティブな意味に思えてならないからなんです。



「義理」チョコをあげることでさらに「義理」が生まれる、なんて


そんなつながり方はナンセンス。。




だから私は「感謝」チョコとして彼らにあげました。



「いつもありがとう」


という想いをチョコに託して伝えたい。



そんな気持ちが伝わったのか、


とても喜んでくれたみたいで私まで嬉しかったです。



来年は「本命」チョコをつくって渡せるような人が現れるよう願います。



昨年の今頃はカナダからLAに行っていた。


カナダでは友達の家に泊まり、ぶらぶらと観光したりしたなぁ。



そのカナダで私を歓迎してくれた友達が、10月にお亡くなりになった。


まだ、20歳。


人生50年だとしても、その半分さえも生きてない。


去年は2人でカナダ観光したことがはるか昔に感じられる。





今日はだいぶ遅らばせながら、彼女の家へご挨拶に行ってきた。





今までにわかに信じられていなかった事実が目の前に現る。


いや、信じたくなかった。


ある日突然彼女がこの世から姿を消した、なんてどうして信じられるだろう。




理性では理解しているが、感情が拒否している―







「生きる」って何なんだろう。


人はなぜ生きるんだろう。





この問いを昔から繰り返し自問自答してきた。


しかし、今回ほど真剣に、そして現実的なものとして考えたことはないだろう。



正解なんてない。


だが、生の意味づけを求めたくなる時もある。



「生きる」ということがどういう意味をもつのか


何のために人は生きているのか




それが分からないからこそ生きている、のか


それとも生きているからこそ分からない、のか。




「死」という概念が存在してこそ「生」という概念が生まれる。


「生」の対極にある「死」を経験したことがないから、


あるいは「死」に近い体験をしたことがないから


「生」をリアルに捉えることが難しいのかもしれない。




たぶん考えだしたら延々と続くだろう。


でも、やめない。


私は生きて、生きて、生きぬくことでずっと模索し続ける。


自分の「生」への答えを。





彼女の分も頑張って生きる、なんて自分のエゴかもしれない。


けど


彼女に恥じない生き方をしたい。



彼女がこの世に存在したという事実は私の中で生き続ける。


その想いを胸に秘め、前に進もう。


転んだ人間は、幸せだ。


だって転んだことのない人間は転んだ時の痛みを知らないのだから。




未来に恐怖を感じる人間は、幸せだ。


だっていまの状況に安心を感じることができるのだから。




ホームシックに陥る人間は、幸せだ。


だって帰りたい場所があるのだから。




悲しみに暮れている人間は、幸せだ。


だって「幸せ」を味わったことがあるのだから。





生きている人間は、幸せだ。


だって明日を生きることのできない人もいるんだから。





そう思うと、感謝の気持ちでいっぱいになる。


幸せで世は満たされている。



それをどのように見るかが人間にゆだねられているだけ。



it's up to you



thank you for everything, everyone !!!