クラクフ旅行記、少し間が空いてしましました
今日書く内容は、簡単に触れることがなかなか難しく。
クラクフは、近くに3つもの世界遺産が集まっている、世界的にも非常に珍しいと言える街です。今回の旅は、実はこの2日目に訪れた「アウシュヴィッツ-ビルケナウ ナチスドイツ強制絶滅収容所」を訪れることを、第一の目的としていました。
ヨーロッパに駐在同行するという機会に恵まれ、日本に住んでいるのと比べると、はるかに簡単にヨーロッパ諸国を訪ね歩くことができます。中世の時代に建てられた歴史ある建造物、教会や趣のある街並み、豊かな自然、土地ならではの美味しい食べ物など、楽しい体験を数多くできる機会を得ました。そんな中、人類の負の遺産といえる、この場所を訪れておくことも、自分にとって貴重な経験になるのではないかと。もし日本から旅行に来るとしたら、、、時間もお金もかかる中、どうしても、楽しめることを優先してしまい
俗人の私には、なかなか、強制収容所訪問を主目的とした旅を計画することは、できないと思います。 具体的に、何が学べるとか、壮大な思想があって訪問したわけでもありません。ただ、とにかく「見ておく、そして何か感じる」ことが大事な場所なのでは、と思っての訪問でした。
事前に、アウシュヴィッツ-ビルケナウ国立博物館で公認ガイドをしていらっしゃる、中谷さんにコンタクトを取り、ご案内をしていただくようにお願いしておきました。もし、これから訪れるご予定のあるかたは、是非とも彼にご連絡をされ、ガイドいただくことをお薦めします(http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/hito/nakatani.htm)
彼の静かな語り口、事実と背景を淡々と述べられ、ご自身の見解も加えながら、「あとはご自身で考えていただきたいことです」と、問題提起を繰り返し投げかけてくださいます。自分たちだけで見たら、「同じ人間がしたとは思えないほど、恐ろしいことがあったのだ」という単純な感想で終わってしまう懸念があったと思います。感じたことは、全て明瞭に言語化できないし、整理しきれていないので、この記事は私自身が自分が感じたことを出来るだけ覚えておくために、といった手掛かりとして残したものだとご理解、ご了承ください。
有名な、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のスローガンが掲げられた門。木が背景に茂っているので、この写真ではすべての文字を読み取りにくいと思いますが。ここをくぐると、収容所敷地内。ARBEITのBの字が、実は上下反転されており、これはナチスドイツに対するせめてもの抵抗、反発心の表れであることを、終戦後にこの門を作られた方が証言されたと説明を受けました。
実は、この門、私たちが訪れた段階では、レプリカでした。なんと、この門が数年前に盗難にあうという、信じられない事件があったそうです
現在、取り戻されているのですが、なんと3つに分断されていたという
修復がやっと終わり、まだ架け替えられる前とのことでした。それにしても、許し難いことをする人がいるものです
門の両側からすぐに、2重の有刺鉄線の囲いがグルリとあります。この有刺鉄線には、常時220Vの電流が流されており(拡大いただくと、門柱の有刺鉄線を留める部分がコイル状になっていることがわかります)、この柵を突破できた人はほとんどいない、と説明されました。
入ってすぐは、大木の並木になっています。「これらの木は、建設当初は苗木だったものが、ここまでの歳月を経て成長したものです」という言葉を聞き、流れた年月と、それでも癒えない疵の大きさが身に滲みる思いです。
湿地帯であったこの場所に、収容所を建設する当時の絵です。「囚人」と呼ばれた人々が作業をさせられていますが、掘れば水が出る地層での建設作業は、困難で過酷なものだったそうです。
沢山の収容棟が並んでいます。この1棟に、700-1000人もが収容されていたそうです。道の両側に苗木が植えられています。本来ここにあった木は入ってすぐの並木のように大木になっていましたが、見学者の安全のため伐採され、あらたに植えられた苗木だそうで、建設当初の雰囲気がこのようなものだったと思ってください、と言われました。このように、整然とならんだレンガ作りの建物、緑も計画的に配備され、当時のドイツの、高い水準にあった建築基準に沿った作りを、きちんとしているのです、という説明が印象的でした。「街づくり(入れ物づくり)」の計画、設計をした人は、その中で起こることには無関係に、ただ、誠実に自分のするべき仕事をしたに過ぎない、という『事実』。
なぜにこのような悲劇が起きたのか
一連の行動の背景は、「気に入らない誰かを痛めつけよう」というマイナスなメッセージが表立って使われたわけではありません。そうであったなら、逆に歯止めがかかったのではないでしょうか。使われたスローガンは、『ドイツ国民を、ポーランドやロシア、ユダヤ人やジプシー(差別用語として現在は使われませんが、ここではこの時代に使われていた言葉として使用します)の脅威から解き放とう』というものでした。収容棟内の展示を見ながら、説明を受けます。
繁栄を享受していたドイツが、第一次世界大戦に破れ、世界恐慌に襲われて、豊かさを知っていたドイツ国民には大きなストレスがかかった状態であった、と。その不満を、「不当なやり方でドイツ人から富を搾取したユダヤ人のせい」とし、また「優れた人種であるゲルマン人が世界を支配する権利があり、そうすることが世界を良いものにする。現在のドイツの衰退は、ドイツ民族が他民族(特にユダヤ)の血の汚濁を受けていることによる」という思想に向け、またそれに対して反対の声を上げる人がいなかった、社会の空気が悲劇をもたらしたのではないか、と。決して賛同した人が多かったわけではなく、表立って反対した人がいなかった(できなかった)社会の空気、ということについて、中谷さんは何度も触れられました。反対できなかった社会の空気、それを社会の責任としてどう捉えるか、今後、同様の問題を起こさないためには、何ができるのか。答えがすぐに出てくるものではないけれども、考えるのとそうでないのは、また違ってくる、と。
収容所に到着して、労働力外と「選別」され、入所することさえなく「死」に向かって歩かされる人々の写真。子供たちとその母親、そして老人が主です。なんと説明してよいかわからない、とにかく「圧倒的な哀しみ」で胸が塞がれる思いが、棟内見学の間中、ずっとしていました。想像を絶する彼・彼女らの思いに共感できるはずもなく、同情もおこがましいと考えてしまうのに、とにかくただ哀しくて涙がでそうになっていました。
収容されてきた人々は、ユダヤ人だけに限らず、最初はドイツやポーランドの「政治犯(ナチスの政策に反対意見を述べた者)」が収容されました。反対する人を「政治犯」として隔離、抹殺する独裁政権。ドイツが勢力を広げたヨーロッパ全土から集めたユダヤ人犠牲者が圧倒的に多かったため、やはりそこがクローズアップされますが、彼らを助け匿ったポーランド人も、政治犯として死に至らしめた事実があります。
左下、最初は修道院の人々が、「政治犯」として収容されてきました。
そして、右下、胸にユダヤ人のマークを付けさせられた多くの人々が、全財産をカバンに詰め込んでこの地に連れてこられたのです。
これは、第二収容所であるビルケナウの写真ですが、このような長い貨車に乗せられて、沢山の人が連れてこられました。「自分たちの国」を用意してあげるから、と言われ・・・皆、二度と住んでいた場所に戻れないためできる限りの荷物を持っています。これも、「ドイツ人から不正なやり方で搾取した財産」として、没収されてしまうのですが。ユダヤの人々が、「自分たちの国」がもらえる、という言葉を本当に信じていたか、、、それはわかりませんが、それにすがって来るしかなかった、ということを考えると、、、
「選別」のシーンです。一番右に軍服を着て、左の人々の列に向かって立ち、働けるかどうかを「選別」している人が、「医療技術最先端の国、ドイツの医者」なのです。高い医療技術と学識を持つ医者が、なぜこのようなことをしてしまったのか、できたのか。
収容所は、どんどん拡張されていきましたが、それでも毎日毎日多くの人々が運ばれてくるため全員収容する能力はありませんでした。そのために「選別」が必要で、なんと75%以上の人が、運ばれた後、収容されることすらなく、ガス室送りへと。
チクロムBという殺虫剤の缶です。第二次大戦後、たまたま残っていたものが発見されたと。この殺虫剤で、多くの人が命を落としました。しかし、残っている書類上は、通常使用目的のための購入であり、この薬剤の販売記録からは、この薬の製造会社には犯罪のあとを見ることができない、ということで。多くの人を死に至らしめた薬剤の売買は、通常の商取引にしか過ぎなかった、という事実。
ユダヤ人を、とりあえず騙して連行するために。カバンに、あえて名前と住所をしっかり書かせて、「新しい自分たちの国へ」財産を持参させたのだそうです。はっきりと、現在も残る住所と名前が読み取れるのに、その場所に行っても、誰もその人を知っている人が居ないのだそうです。周辺に住んでいた、一族、縁者、とにかくユダヤ人コミュニティーの人々が、子どもも例外なく、ごっそりとまとめて「移住」させられたために。「本当に、新しい生活が待っていると信じていたかはわからない、でも、行くしかなかった」。何を言っていいのかもわかりません。
沢山の食器、ブラシ、靴ズミやハンドクリームまで、いろいろな所持品の残りが集められて展示されていました。そんな小さな日用品まで、全て詰め込んで列車に。お金やめぼしい財産は、既に没収された後で、そんなものでも大事な財産であった、ということ。そしてさらに、収容所ではそのようなものでさえも没収され、価値が多少なりともあるものは、「商品」と変えられて運び出されていったのです。噂で聞いている人も多いでしょうが、多量の「人毛(髪の毛)」も保管・展示されていました(写真撮影は、遺族のお気持ちに配慮し、禁止となっています)。髪の毛で織られた布は、原材料を特に言わなければ、「単なる布地」にしか見えず、住居の内装材や衣服の裏打ち布として出荷されていたようです。
組織だって、収益を上げるためのシステムは非常に整備されたものとして機能していたようです。これは、金、銀、宝石類などの、収容された人々から押収したものが商品として記載された書類です。もともとは、個人個人の財産や、大事にしていたアクセサリー、それこそ金歯などだったものも、こうして「単なる物」として取り扱われきちんと記録が残されていた。この収益は、収容所を管理する人たちの成果となりますが、受け取る本部の幹部たちにとっても、生々しい実態を感じさせない単なる収益としてしか見えないのです。全く知らなかった訳ではないでしょうが、あえて知ろうとしなければ、感じる必要がない状態だった。個々人は淡々と、目の前の仕事をやっているだけの状態を分業で作り出していることが、人が人として扱われず、モノのように扱われた悲劇が止められなかった要因の一つです。
「囚人」と呼ばれている方々は、最初はこのように単にワラを敷いた床の上に寝かされていました。
後にそれがマットになり、もっと後には、囚人の環境改善というためにではなく、空間効率のために3段ベットになります。
下の写真で、壁に当時の様子が描かれています。監督者であるドイツ軍人は、囚人の中でもリーダーを作り、彼らに「生存」の可能性をちらつかせ操っていました。絵でもわかるように、ドイツ軍人は指示するだけで、実際に体罰を与えているのは、同じ囚人服を着た人です。このようにして、実際に手をくださないことで罪悪感に苛まれないように、ドイツ軍人の精神的負荷を軽減し、また囚人内での生き残り競争をさせることで、囚人同士が結束して反乱を起こすことを防ぐという仕組みだったのです。
下の写真は、ドイツ人監督官ではなく、なんと囚人のリーダーの部屋です。一般の囚人は、部屋いっぱいの3段ベットの狭い1段に、二人ずつ詰め込まれていたのに対し、個室があり、テーブルと椅子、クローゼットなどの家具があり、そして食べ物の分配権なども与えられたようです。
建家の廊下に、沢山の囚人の方々の写真が飾られていました。収容された日、無くなった日が記録されていて、大体の方が3ヶ月以内に亡くなられていました。必要最低限のカロリーを計算された食事を与えられて、過酷な労働に従事させられ。労働力の確保も必要であったが、ずっと生かしておくつもりもなく、そのくらいで亡くなるサイクルを作っていた、ということなのです。女性囚人も、髪を短く刈られ、一見して女性とわからないような写真ですが、中に、髪の毛が長いままの方も時々いるのです。「リーダー」として生存可能性が与えられた人で、そういった外観でも差をつけて囚人内の団結を阻む。髪が長い方は、生存期間がやはり6ヶ月~1年と、長い傾向にある、と見て取れました。少しでも生き残る可能性があるなら、快適な環境が得られるなら、、、自分がその場に居たとき、リーダーとして生存可能性を与えてもらいたい、と願わないでしょうか。
中谷さんも、たびたび「こうしたリーダーの方々は、一方で、重要な証言者となりうる情報も持っているため、やはり生かしておきたくない対象として、最終的には抹殺されるという運命をたどる人も多かった。そして奇跡的に生還された方々も、どちらかというと控えめな、普通の人たちなんです。このような想像を絶する環境に置かれたときに、どうするだろうか。また、あっさり死ぬということが、自分が悪くないのに最も屈辱的なことであり、ナチスドイツに屈しないためにも、生き残ってこの惨状を訴えたい、とそのことをひたすらに願って生き延びた人もいると思います」ということをおっしゃっていました。
収容所には、水洗トイレまで備え付けられていました。これは、囚人の生活環境をよくしたいと願ってのことではなく、一気に労働力が無くなると困るため、伝染病を防ぐためのものでした。
同じ考え方で、洗面所も整備されています。壁や天井には子供や馬の絵が描かれ、一見するとのどかで。建家の間に木を植えたり、といったことなどと合わせて考えると、きちんと居住環境に配慮した優れた設備であり、赤十字などの視察があっても優良施設と認定されそうな状況だ、と。
死の壁。ナチスの思想に反対した「政治犯」は、ごくごく簡単な数分の裁判ののち、すぐにここで処刑されたそうです。跳弾によって刑の執行人が怪我をしないように、クッション材を背にした壁。
ここでも、裁判をして判決を出す人は刑の執行を目にすることはなく。執行人も、罪状や裁判の実態は知らず、「有罪死刑判決」が出た罪人を、業務命令に従って処刑するだけ、ということで分業にして精神的な負荷がかからない仕組みなのだそうです。
これは、脱走者が出たときに、連帯責任として同室の囚人を無作為に数名選び、見せしめとして公開で絞首刑にした場だそうです。奥の壁のパネルに説明が書かれていますが、、、
絞首刑だけでなく、いろいろな処刑法があったようです。10名を選んだ餓死刑の際、家族がいるので助けて欲しい、と命乞いをした人の身代わりとして名乗り出た、長崎に宣教師として滞在したこともあるコルベ神父が亡くなった部屋や、立ち刑や窒息刑などの拷問部屋などもありました。
それから、この第一収容所にあるガス室と焼却炉なども見ました。収容前に、清潔にするためシャワーを浴びるのだ、と言われて服を脱がされ、ガス室に閉じ込められた人々。そのガス室も、天井の穴から、殺虫剤を投げ込んだら、そこを閉じて中を見なくてよい構造にし、ドイツ兵が精神的に負荷を負わなくてよいような構造にしてあります。さらに、遺体の搬出と、髪を刈ったりといった作業、そして遺体の焼却作業も全て、「生存の可能性を与えた」囚人にさせて、残酷な物は見なくてよいシステムに。これらの作業をやらされた囚人は、もちろん最高機密のために他の囚人との接触は許されていませんでした。彼らの心境も、いかばかりか。
収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスは、すぐ側の一戸建ての家に、家族とともに住んでいました。彼にも5人の子供がおり、園芸が好きで綺麗な庭を作って生活をしていたとのこと。その一方で、囚人を労働力として企業に売ったり(近くに、大手ドイツ企業の工場が進出していました)、押収したものなどで収益をあげ、それが中央で認められて昇進している。さらに、労働力として囚人達を次々と使い捨てたり、労働力にならないものは収容もせずにガス室送りにしたり、、、戦後、彼ら現場に居た者たちは、中央の指示に従っただけと主張し、中央の者たちは、現場が勝手に行なったことだと主張したそうです。
ヘスは、戦後、戦犯としてこの地で絞首刑に処せられました。公開処刑の場が、残されていました。
続いて、無料シャトルバスでビルケナウ(第二収容所)へ。規模はこちらがはるかに大きいです。バスを降りると、鉄条網の向こうに、レンガ造りの建物や、木造建家にあった暖炉跡がずーっと広がっています。
ヨーロッパ各地から、鉄道がつながったこの地に、最終的には引込線を延ばして多くの囚人となる人々を運んできたのです、、、
実際に使用された貨車が。訪れるユダヤ人の人々が、石を積んでいます。この中に、立った状態でギュウギュウ詰めに乗せられて運ばれてきた人々がいたのですね。
貨車から降りて労働力外と「選別」された人々が、歩いた道を歩きます。ドイツ軍が、撤退の際に爆破した「ガス室」が残されています。
線路の終点部の先に、慰霊碑が建てられており、収容所にて命を落とされた犠牲者の方々のそれぞれの国の言葉で作られたプレートが並んでいます。この数をみても、相当の広範囲から人々が連れてこられたことがわかります。
同じ内容の言葉が刻まれていますが、理解できる英語のものを。
石造りの建家は、中がこのように3段にしきられ、藁が敷かれてその中で多くの収容者達が-20度にもなる極寒の時にも、暖炉のわずかばかりの火を頼りに過ごさせられていたのです。
戦況が悪化し、また建築が間に合わなくなると、レンガ造りから木造に変えられて多くの棟が建てられました。第二次世界大戦からの復興に、この木造棟の材木が使用されたため、木造の建家はほとんど残っておらず、現在では暖炉の跡ばかりがものすごい数で並んでいます。
木造の建家も、見学用に開放されたものがあり、見せていただきました。湿地帯で、地盤の問題や老朽化もあり、レンガ造りの建物も、入れなくなってきているものが増えているそうです。
トイレです。先に述べたように、伝染病を防ぐため、洗面所とトイレはきちんと整備されていましたが、仕切りもなく、ここではこのように単に穴が並んでいるもの。この棟にトイレの時間に集められる訳ですが、一人当たりの時間はとても短く制限されています。このような状態に置かれ、自尊心を保ち続けることはとても難しいことだと思います。また、このように尊厳を損なうような扱いをする側は、それを受けている立場の人を、あっという間に見下すべき者として認識するようになるでしょう、、、
時間もなく、とりあえず、これらの木造棟は、最もコストがかからず、素早く建てることができる「馬小屋」の設計図でそのまま建て、そこにベットを並べて囚人を収容したそうです。
「馬小屋」の設計図を書き、その建築材料を仕入れ、そのとおりに建てたという、それぞれの仕事を果たしただけの人々がここにも見えます。つなぐ馬も居ない、この収容棟に、馬をつなぐ部品が残っているのです。なぜなら、実際に建てた人は、図面通り馬小屋を建てたから。
今、ヨーロッパの経済はまた厳しくなり、ドイツに限らず移民の増加は避けて通れず、また受け入れなくては経済も立ち行かない状況です。これまでのような豊かさを享受できないストレスは、世界に広がっています。日本にとっても、これから少子高齢化が進み、移民との共存は、避けて通れない社会になってきます。日本は、これまで、そういった経験がない民族が暮らす社会です。「ヨーロッパで起きた、このような悲惨な歴史を、知っているのと知っていないのでは、間違った方向に進む大きな流れを起こさないようにする、というためには、大きな違いがあるのではないか」と考えている、というようなことを中谷さんはおっしゃっていました。
皆が悪人だったのではない。少数の推進者が居て、大多数は賛成もしていないが、反対もしなかった傍観者であった。ただの傍観者であった、という背景には、「自己保身」「自分の持分を守りたい」という、誰もが持ちうるであろう思いがあっただけ。そして、それぞれの立場の人は、目の前の与えられた、命じられた仕事を、ただ淡々とやっただけ。どうすれば防げたのか、、、非常に難しい課題です。
どうすれば、「悲劇を起こさない」ための力が生まれる社会の空気、声を上げることができる社会の仕組み、そういったものを作り出せるのだろうか。決して、忘れてはならない、考えることをやてめてはならないことだと思います。ここアウシュヴィッツ-ビルケナウが世界遺産に指定され、今、多くの人々が訪れているのは(最近、またとても増えているそうです)、皆がそのことを考える必要がある、と心のどこかで気づいているからではないか、と思います。
今日書く内容は、簡単に触れることがなかなか難しく。クラクフは、近くに3つもの世界遺産が集まっている、世界的にも非常に珍しいと言える街です。今回の旅は、実はこの2日目に訪れた「アウシュヴィッツ-ビルケナウ ナチスドイツ強制絶滅収容所」を訪れることを、第一の目的としていました。
ヨーロッパに駐在同行するという機会に恵まれ、日本に住んでいるのと比べると、はるかに簡単にヨーロッパ諸国を訪ね歩くことができます。中世の時代に建てられた歴史ある建造物、教会や趣のある街並み、豊かな自然、土地ならではの美味しい食べ物など、楽しい体験を数多くできる機会を得ました。そんな中、人類の負の遺産といえる、この場所を訪れておくことも、自分にとって貴重な経験になるのではないかと。もし日本から旅行に来るとしたら、、、時間もお金もかかる中、どうしても、楽しめることを優先してしまい
俗人の私には、なかなか、強制収容所訪問を主目的とした旅を計画することは、できないと思います。 具体的に、何が学べるとか、壮大な思想があって訪問したわけでもありません。ただ、とにかく「見ておく、そして何か感じる」ことが大事な場所なのでは、と思っての訪問でした。事前に、アウシュヴィッツ-ビルケナウ国立博物館で公認ガイドをしていらっしゃる、中谷さんにコンタクトを取り、ご案内をしていただくようにお願いしておきました。もし、これから訪れるご予定のあるかたは、是非とも彼にご連絡をされ、ガイドいただくことをお薦めします(http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/hito/nakatani.htm)
彼の静かな語り口、事実と背景を淡々と述べられ、ご自身の見解も加えながら、「あとはご自身で考えていただきたいことです」と、問題提起を繰り返し投げかけてくださいます。自分たちだけで見たら、「同じ人間がしたとは思えないほど、恐ろしいことがあったのだ」という単純な感想で終わってしまう懸念があったと思います。感じたことは、全て明瞭に言語化できないし、整理しきれていないので、この記事は私自身が自分が感じたことを出来るだけ覚えておくために、といった手掛かりとして残したものだとご理解、ご了承ください。有名な、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のスローガンが掲げられた門。木が背景に茂っているので、この写真ではすべての文字を読み取りにくいと思いますが。ここをくぐると、収容所敷地内。ARBEITのBの字が、実は上下反転されており、これはナチスドイツに対するせめてもの抵抗、反発心の表れであることを、終戦後にこの門を作られた方が証言されたと説明を受けました。
実は、この門、私たちが訪れた段階では、レプリカでした。なんと、この門が数年前に盗難にあうという、信じられない事件があったそうです
現在、取り戻されているのですが、なんと3つに分断されていたという
修復がやっと終わり、まだ架け替えられる前とのことでした。それにしても、許し難いことをする人がいるものです
門の両側からすぐに、2重の有刺鉄線の囲いがグルリとあります。この有刺鉄線には、常時220Vの電流が流されており(拡大いただくと、門柱の有刺鉄線を留める部分がコイル状になっていることがわかります)、この柵を突破できた人はほとんどいない、と説明されました。
入ってすぐは、大木の並木になっています。「これらの木は、建設当初は苗木だったものが、ここまでの歳月を経て成長したものです」という言葉を聞き、流れた年月と、それでも癒えない疵の大きさが身に滲みる思いです。
湿地帯であったこの場所に、収容所を建設する当時の絵です。「囚人」と呼ばれた人々が作業をさせられていますが、掘れば水が出る地層での建設作業は、困難で過酷なものだったそうです。
沢山の収容棟が並んでいます。この1棟に、700-1000人もが収容されていたそうです。道の両側に苗木が植えられています。本来ここにあった木は入ってすぐの並木のように大木になっていましたが、見学者の安全のため伐採され、あらたに植えられた苗木だそうで、建設当初の雰囲気がこのようなものだったと思ってください、と言われました。このように、整然とならんだレンガ作りの建物、緑も計画的に配備され、当時のドイツの、高い水準にあった建築基準に沿った作りを、きちんとしているのです、という説明が印象的でした。「街づくり(入れ物づくり)」の計画、設計をした人は、その中で起こることには無関係に、ただ、誠実に自分のするべき仕事をしたに過ぎない、という『事実』。
なぜにこのような悲劇が起きたのか
一連の行動の背景は、「気に入らない誰かを痛めつけよう」というマイナスなメッセージが表立って使われたわけではありません。そうであったなら、逆に歯止めがかかったのではないでしょうか。使われたスローガンは、『ドイツ国民を、ポーランドやロシア、ユダヤ人やジプシー(差別用語として現在は使われませんが、ここではこの時代に使われていた言葉として使用します)の脅威から解き放とう』というものでした。収容棟内の展示を見ながら、説明を受けます。
繁栄を享受していたドイツが、第一次世界大戦に破れ、世界恐慌に襲われて、豊かさを知っていたドイツ国民には大きなストレスがかかった状態であった、と。その不満を、「不当なやり方でドイツ人から富を搾取したユダヤ人のせい」とし、また「優れた人種であるゲルマン人が世界を支配する権利があり、そうすることが世界を良いものにする。現在のドイツの衰退は、ドイツ民族が他民族(特にユダヤ)の血の汚濁を受けていることによる」という思想に向け、またそれに対して反対の声を上げる人がいなかった、社会の空気が悲劇をもたらしたのではないか、と。決して賛同した人が多かったわけではなく、表立って反対した人がいなかった(できなかった)社会の空気、ということについて、中谷さんは何度も触れられました。反対できなかった社会の空気、それを社会の責任としてどう捉えるか、今後、同様の問題を起こさないためには、何ができるのか。答えがすぐに出てくるものではないけれども、考えるのとそうでないのは、また違ってくる、と。
収容所に到着して、労働力外と「選別」され、入所することさえなく「死」に向かって歩かされる人々の写真。子供たちとその母親、そして老人が主です。なんと説明してよいかわからない、とにかく「圧倒的な哀しみ」で胸が塞がれる思いが、棟内見学の間中、ずっとしていました。想像を絶する彼・彼女らの思いに共感できるはずもなく、同情もおこがましいと考えてしまうのに、とにかくただ哀しくて涙がでそうになっていました。
収容されてきた人々は、ユダヤ人だけに限らず、最初はドイツやポーランドの「政治犯(ナチスの政策に反対意見を述べた者)」が収容されました。反対する人を「政治犯」として隔離、抹殺する独裁政権。ドイツが勢力を広げたヨーロッパ全土から集めたユダヤ人犠牲者が圧倒的に多かったため、やはりそこがクローズアップされますが、彼らを助け匿ったポーランド人も、政治犯として死に至らしめた事実があります。
左下、最初は修道院の人々が、「政治犯」として収容されてきました。
そして、右下、胸にユダヤ人のマークを付けさせられた多くの人々が、全財産をカバンに詰め込んでこの地に連れてこられたのです。
これは、第二収容所であるビルケナウの写真ですが、このような長い貨車に乗せられて、沢山の人が連れてこられました。「自分たちの国」を用意してあげるから、と言われ・・・皆、二度と住んでいた場所に戻れないためできる限りの荷物を持っています。これも、「ドイツ人から不正なやり方で搾取した財産」として、没収されてしまうのですが。ユダヤの人々が、「自分たちの国」がもらえる、という言葉を本当に信じていたか、、、それはわかりませんが、それにすがって来るしかなかった、ということを考えると、、、
「選別」のシーンです。一番右に軍服を着て、左の人々の列に向かって立ち、働けるかどうかを「選別」している人が、「医療技術最先端の国、ドイツの医者」なのです。高い医療技術と学識を持つ医者が、なぜこのようなことをしてしまったのか、できたのか。
収容所は、どんどん拡張されていきましたが、それでも毎日毎日多くの人々が運ばれてくるため全員収容する能力はありませんでした。そのために「選別」が必要で、なんと75%以上の人が、運ばれた後、収容されることすらなく、ガス室送りへと。
チクロムBという殺虫剤の缶です。第二次大戦後、たまたま残っていたものが発見されたと。この殺虫剤で、多くの人が命を落としました。しかし、残っている書類上は、通常使用目的のための購入であり、この薬剤の販売記録からは、この薬の製造会社には犯罪のあとを見ることができない、ということで。多くの人を死に至らしめた薬剤の売買は、通常の商取引にしか過ぎなかった、という事実。
ユダヤ人を、とりあえず騙して連行するために。カバンに、あえて名前と住所をしっかり書かせて、「新しい自分たちの国へ」財産を持参させたのだそうです。はっきりと、現在も残る住所と名前が読み取れるのに、その場所に行っても、誰もその人を知っている人が居ないのだそうです。周辺に住んでいた、一族、縁者、とにかくユダヤ人コミュニティーの人々が、子どもも例外なく、ごっそりとまとめて「移住」させられたために。「本当に、新しい生活が待っていると信じていたかはわからない、でも、行くしかなかった」。何を言っていいのかもわかりません。
沢山の食器、ブラシ、靴ズミやハンドクリームまで、いろいろな所持品の残りが集められて展示されていました。そんな小さな日用品まで、全て詰め込んで列車に。お金やめぼしい財産は、既に没収された後で、そんなものでも大事な財産であった、ということ。そしてさらに、収容所ではそのようなものでさえも没収され、価値が多少なりともあるものは、「商品」と変えられて運び出されていったのです。噂で聞いている人も多いでしょうが、多量の「人毛(髪の毛)」も保管・展示されていました(写真撮影は、遺族のお気持ちに配慮し、禁止となっています)。髪の毛で織られた布は、原材料を特に言わなければ、「単なる布地」にしか見えず、住居の内装材や衣服の裏打ち布として出荷されていたようです。
組織だって、収益を上げるためのシステムは非常に整備されたものとして機能していたようです。これは、金、銀、宝石類などの、収容された人々から押収したものが商品として記載された書類です。もともとは、個人個人の財産や、大事にしていたアクセサリー、それこそ金歯などだったものも、こうして「単なる物」として取り扱われきちんと記録が残されていた。この収益は、収容所を管理する人たちの成果となりますが、受け取る本部の幹部たちにとっても、生々しい実態を感じさせない単なる収益としてしか見えないのです。全く知らなかった訳ではないでしょうが、あえて知ろうとしなければ、感じる必要がない状態だった。個々人は淡々と、目の前の仕事をやっているだけの状態を分業で作り出していることが、人が人として扱われず、モノのように扱われた悲劇が止められなかった要因の一つです。
「囚人」と呼ばれている方々は、最初はこのように単にワラを敷いた床の上に寝かされていました。
後にそれがマットになり、もっと後には、囚人の環境改善というためにではなく、空間効率のために3段ベットになります。
下の写真で、壁に当時の様子が描かれています。監督者であるドイツ軍人は、囚人の中でもリーダーを作り、彼らに「生存」の可能性をちらつかせ操っていました。絵でもわかるように、ドイツ軍人は指示するだけで、実際に体罰を与えているのは、同じ囚人服を着た人です。このようにして、実際に手をくださないことで罪悪感に苛まれないように、ドイツ軍人の精神的負荷を軽減し、また囚人内での生き残り競争をさせることで、囚人同士が結束して反乱を起こすことを防ぐという仕組みだったのです。
下の写真は、ドイツ人監督官ではなく、なんと囚人のリーダーの部屋です。一般の囚人は、部屋いっぱいの3段ベットの狭い1段に、二人ずつ詰め込まれていたのに対し、個室があり、テーブルと椅子、クローゼットなどの家具があり、そして食べ物の分配権なども与えられたようです。
建家の廊下に、沢山の囚人の方々の写真が飾られていました。収容された日、無くなった日が記録されていて、大体の方が3ヶ月以内に亡くなられていました。必要最低限のカロリーを計算された食事を与えられて、過酷な労働に従事させられ。労働力の確保も必要であったが、ずっと生かしておくつもりもなく、そのくらいで亡くなるサイクルを作っていた、ということなのです。女性囚人も、髪を短く刈られ、一見して女性とわからないような写真ですが、中に、髪の毛が長いままの方も時々いるのです。「リーダー」として生存可能性が与えられた人で、そういった外観でも差をつけて囚人内の団結を阻む。髪が長い方は、生存期間がやはり6ヶ月~1年と、長い傾向にある、と見て取れました。少しでも生き残る可能性があるなら、快適な環境が得られるなら、、、自分がその場に居たとき、リーダーとして生存可能性を与えてもらいたい、と願わないでしょうか。
中谷さんも、たびたび「こうしたリーダーの方々は、一方で、重要な証言者となりうる情報も持っているため、やはり生かしておきたくない対象として、最終的には抹殺されるという運命をたどる人も多かった。そして奇跡的に生還された方々も、どちらかというと控えめな、普通の人たちなんです。このような想像を絶する環境に置かれたときに、どうするだろうか。また、あっさり死ぬということが、自分が悪くないのに最も屈辱的なことであり、ナチスドイツに屈しないためにも、生き残ってこの惨状を訴えたい、とそのことをひたすらに願って生き延びた人もいると思います」ということをおっしゃっていました。
収容所には、水洗トイレまで備え付けられていました。これは、囚人の生活環境をよくしたいと願ってのことではなく、一気に労働力が無くなると困るため、伝染病を防ぐためのものでした。
同じ考え方で、洗面所も整備されています。壁や天井には子供や馬の絵が描かれ、一見するとのどかで。建家の間に木を植えたり、といったことなどと合わせて考えると、きちんと居住環境に配慮した優れた設備であり、赤十字などの視察があっても優良施設と認定されそうな状況だ、と。
死の壁。ナチスの思想に反対した「政治犯」は、ごくごく簡単な数分の裁判ののち、すぐにここで処刑されたそうです。跳弾によって刑の執行人が怪我をしないように、クッション材を背にした壁。
ここでも、裁判をして判決を出す人は刑の執行を目にすることはなく。執行人も、罪状や裁判の実態は知らず、「有罪死刑判決」が出た罪人を、業務命令に従って処刑するだけ、ということで分業にして精神的な負荷がかからない仕組みなのだそうです。
これは、脱走者が出たときに、連帯責任として同室の囚人を無作為に数名選び、見せしめとして公開で絞首刑にした場だそうです。奥の壁のパネルに説明が書かれていますが、、、
絞首刑だけでなく、いろいろな処刑法があったようです。10名を選んだ餓死刑の際、家族がいるので助けて欲しい、と命乞いをした人の身代わりとして名乗り出た、長崎に宣教師として滞在したこともあるコルベ神父が亡くなった部屋や、立ち刑や窒息刑などの拷問部屋などもありました。
それから、この第一収容所にあるガス室と焼却炉なども見ました。収容前に、清潔にするためシャワーを浴びるのだ、と言われて服を脱がされ、ガス室に閉じ込められた人々。そのガス室も、天井の穴から、殺虫剤を投げ込んだら、そこを閉じて中を見なくてよい構造にし、ドイツ兵が精神的に負荷を負わなくてよいような構造にしてあります。さらに、遺体の搬出と、髪を刈ったりといった作業、そして遺体の焼却作業も全て、「生存の可能性を与えた」囚人にさせて、残酷な物は見なくてよいシステムに。これらの作業をやらされた囚人は、もちろん最高機密のために他の囚人との接触は許されていませんでした。彼らの心境も、いかばかりか。
収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスは、すぐ側の一戸建ての家に、家族とともに住んでいました。彼にも5人の子供がおり、園芸が好きで綺麗な庭を作って生活をしていたとのこと。その一方で、囚人を労働力として企業に売ったり(近くに、大手ドイツ企業の工場が進出していました)、押収したものなどで収益をあげ、それが中央で認められて昇進している。さらに、労働力として囚人達を次々と使い捨てたり、労働力にならないものは収容もせずにガス室送りにしたり、、、戦後、彼ら現場に居た者たちは、中央の指示に従っただけと主張し、中央の者たちは、現場が勝手に行なったことだと主張したそうです。
ヘスは、戦後、戦犯としてこの地で絞首刑に処せられました。公開処刑の場が、残されていました。
続いて、無料シャトルバスでビルケナウ(第二収容所)へ。規模はこちらがはるかに大きいです。バスを降りると、鉄条網の向こうに、レンガ造りの建物や、木造建家にあった暖炉跡がずーっと広がっています。
ヨーロッパ各地から、鉄道がつながったこの地に、最終的には引込線を延ばして多くの囚人となる人々を運んできたのです、、、
実際に使用された貨車が。訪れるユダヤ人の人々が、石を積んでいます。この中に、立った状態でギュウギュウ詰めに乗せられて運ばれてきた人々がいたのですね。
貨車から降りて労働力外と「選別」された人々が、歩いた道を歩きます。ドイツ軍が、撤退の際に爆破した「ガス室」が残されています。
線路の終点部の先に、慰霊碑が建てられており、収容所にて命を落とされた犠牲者の方々のそれぞれの国の言葉で作られたプレートが並んでいます。この数をみても、相当の広範囲から人々が連れてこられたことがわかります。
同じ内容の言葉が刻まれていますが、理解できる英語のものを。
石造りの建家は、中がこのように3段にしきられ、藁が敷かれてその中で多くの収容者達が-20度にもなる極寒の時にも、暖炉のわずかばかりの火を頼りに過ごさせられていたのです。
戦況が悪化し、また建築が間に合わなくなると、レンガ造りから木造に変えられて多くの棟が建てられました。第二次世界大戦からの復興に、この木造棟の材木が使用されたため、木造の建家はほとんど残っておらず、現在では暖炉の跡ばかりがものすごい数で並んでいます。
木造の建家も、見学用に開放されたものがあり、見せていただきました。湿地帯で、地盤の問題や老朽化もあり、レンガ造りの建物も、入れなくなってきているものが増えているそうです。
トイレです。先に述べたように、伝染病を防ぐため、洗面所とトイレはきちんと整備されていましたが、仕切りもなく、ここではこのように単に穴が並んでいるもの。この棟にトイレの時間に集められる訳ですが、一人当たりの時間はとても短く制限されています。このような状態に置かれ、自尊心を保ち続けることはとても難しいことだと思います。また、このように尊厳を損なうような扱いをする側は、それを受けている立場の人を、あっという間に見下すべき者として認識するようになるでしょう、、、
時間もなく、とりあえず、これらの木造棟は、最もコストがかからず、素早く建てることができる「馬小屋」の設計図でそのまま建て、そこにベットを並べて囚人を収容したそうです。
「馬小屋」の設計図を書き、その建築材料を仕入れ、そのとおりに建てたという、それぞれの仕事を果たしただけの人々がここにも見えます。つなぐ馬も居ない、この収容棟に、馬をつなぐ部品が残っているのです。なぜなら、実際に建てた人は、図面通り馬小屋を建てたから。
今、ヨーロッパの経済はまた厳しくなり、ドイツに限らず移民の増加は避けて通れず、また受け入れなくては経済も立ち行かない状況です。これまでのような豊かさを享受できないストレスは、世界に広がっています。日本にとっても、これから少子高齢化が進み、移民との共存は、避けて通れない社会になってきます。日本は、これまで、そういった経験がない民族が暮らす社会です。「ヨーロッパで起きた、このような悲惨な歴史を、知っているのと知っていないのでは、間違った方向に進む大きな流れを起こさないようにする、というためには、大きな違いがあるのではないか」と考えている、というようなことを中谷さんはおっしゃっていました。
皆が悪人だったのではない。少数の推進者が居て、大多数は賛成もしていないが、反対もしなかった傍観者であった。ただの傍観者であった、という背景には、「自己保身」「自分の持分を守りたい」という、誰もが持ちうるであろう思いがあっただけ。そして、それぞれの立場の人は、目の前の与えられた、命じられた仕事を、ただ淡々とやっただけ。どうすれば防げたのか、、、非常に難しい課題です。
どうすれば、「悲劇を起こさない」ための力が生まれる社会の空気、声を上げることができる社会の仕組み、そういったものを作り出せるのだろうか。決して、忘れてはならない、考えることをやてめてはならないことだと思います。ここアウシュヴィッツ-ビルケナウが世界遺産に指定され、今、多くの人々が訪れているのは(最近、またとても増えているそうです)、皆がそのことを考える必要がある、と心のどこかで気づいているからではないか、と思います。
テニス仲間で先日ロンドンにご一緒させていただいたHお姉さまと、もうお一人のHyさんと女3人旅、珍道中
11-17世紀においてポーランドの首都であったクラクフは、奇跡的に戦禍を逃れて、ほぼ無傷で中世の姿を残している貴重な街なのです
さらに、南東約13kmには同じく最初の年に世界遺産に選ばれたヴィエリチカ岩塩坑があります。初日は、その2つの世界遺産観光を済ませる計画にしました
ポーランド通貨のキャッシュを入手して、市街地との列車の往復チケットを購入し、計画通りに11時頃にはクラクフ中央駅に到着、ホテルにチェックイン完了
このアパートメントホテルが、今回、Hお姉さまと二人で1部屋にしたのですが、なんと最上階のメゾネットタイプ、ツインベットルームが2つあり、キッチンダイニングが別部屋になった、とても広々明るいお部屋
お部屋に荷物を置いて、市街地観光にGo






ここでちゃんと吹いているらしい
パンの器にいれてサーブ、と書いてあったのでワクワクしてたら、ほんとにパンに入ってきました
少し酸味があり、中にはウインナーやゆでたまご、マッシュルームなどの具がけっこう沢山入っていて、美味しかった










私以外は、小銭が無くて、どうしよう状態
とりあえず、私だけでも買って、「観光客だし、両替できなかった、と検札が来たら言うしかないよね・・・」と半分諦めていましたが、乗客の方が2組ほど、「幾ら
ところが、両替をしてくれたアメリカ人カップルの観光客が、クレームを付けられていました。「パンチしてない切符は、持ってないのと同じだ、Extra Taxを120PLN払え
」とカップルに加勢
彼らの親切がなかったら、私たちも切符を買えずに、大変なことになっていたのは間違いないので、本当に良かった














翌日の行動に向けて、英気を養いました
)予定だったのですが、だんな様は一緒に行かないのに、他の出張者も私が連れていくのが当然といったアレンジを・・・
まあ、出張者休日対応も、駐在者の『仕事』の一環ですから、出張者が続く今(実際、来ている人が変わってもこちらは毎週毎週だと休みがなくて結構大変だと思う)、私が代わりにやってくれるなら、っていう気持ちもわかります。彼の仕事のサポート、協力しましょう
一緒に来ないと言っても、その間に出勤して仕事するわけだし
行きは運転お願いしちゃいます




















