第二章
「捕手のリード論の浸透」

1990年野村氏はヤクルトの監督に就任する。そして奇しくも同年、後に野村ID野球の申し子でもある古田敦也が入団する。野村氏は徹底したデータに基づくID野球をヤクルトに浸透させるべく、就任前まで9年連続Bクラスだったチームの意識改革を行う。就任1年目は5位とすぐに結果は出なかったが2年目に3位、そして3年目には見事リーグ優勝を果たした。そして野村氏は1998年までの9年間4度のリーグ優勝と3度の日本一に輝くのである。その中でも日本シリーズ、対オリックスとの戦いでイチローを徹底的に封じ込めた事はファンはおろか解説者までも唸らせた。そして野村氏は古田敦也を育て上げた名将として捕手のリード論は確固たる地位を築く事になるのである。
私が野村氏について類い稀に見る策士だと感じ始めたのは丁度この頃。野村氏は解説者時代の経験を活かし、マスコミを上手く利用する事に対して非常に長けていた。鍵になる相手選手の事を分析しその対処法や攻略法を惜しげもなく発信していった。その発言がスポーツ紙の一面を飾ることも度々あった。それが本当か嘘かは別として当然相手選手はその事を見聞きする事になり、特に日本シリーズではその手法が型にハマることが多かった。そしてその心理戦、情報戦において野村氏は打者の目を投手から捕手に向ける事に成功したのである。それは我々ファンの目さえも捕手に注目させたのだ。しかし考えてみてほしい。打者は投手と対戦している。投手の投げる球をいかにして打つかを試行錯誤し、それでも7割失敗するのが打者だ。打者は余計な情報が多い事よりもシンプルな考えで打席に臨んだ方が結果は良いに決まっている。投手に加えて捕手まで相手にしていては決して良い結果は得られないのである。捕手に目を向けられた事は野村氏の術中にまんまとハマったと言えるかもしれない。
しかしヤクルトというチームがその頃、黄金期であったかというと決してそうではない。1992,93と連覇して以降、4位→1位→4位→1位→4位とチーム力は決して安定していない。その間、巨人はどうかというとヤクルトが連覇した1992,93は
2位,3位、以降1位→3位→1位→4位→3位とBクラスは一度だけだ。野村氏が捕手のリードを声高に提唱するのならこの成績は理に適っていない。付け加えるならばヤクルトのこの成績は古田の打率成績とリンクしている部分もあり、古田の打撃での貢献はヤクルトのチーム成績に大きな影響を与えているのも事実である。
大学社会人からプロになった選手で2000本を達成したのは落合(大学中退)、古田、宮本の3人だけでいかに難しい事かよく分かる。しかも捕手でだ。その事を踏まえても古田敦也という捕手は打てる捕手であったことは今更言うまでもないだろう。
そして野村氏はヤクルト監督を辞任したあと、その手腕を買われすぐに阪神の監督に就任するが3年連続の最下位。その後2006年から4年間楽天の監督に就任するが6位→4位→5位→2位という成績に終わる。楽天監督時代は試合後の愚痴が、チーム成績よりも話題になるほど相変わらずマスコミ受けが良く現在のボヤき解説に繋がっている。
この事からもわかるようにヤクルトではタイミング良く「古田敦也とのマッチング」で捕手のリード論が陽の目を見たがその後は結果として表れていないのが事実なのだ。

明日、最終章
「捕手のリード論とは?」に続く。