これは、すべてのゲーマーの話ではない。
一部の、魔に囚われてしまった人たちの話。
もともとは友人と会話をするためだった。
オンラインゲームを始めた理由など、その程度のものだったはずだ。
けれど、少しずつ性能の良いパソコンを揃え、キーボードを買い替え、モニターを増やし、環境を整えていくうちに、気が付けば抜け出せなくなっていた。
「人はお金をかけたものに価値を見出したくなる生き物だからだ。」
「男性は三つの道のどれかを歩く。」
そんな話を聞いたのが、いつだっただろうか。
確か二十歳になる前だったと思う。
話をしてくれたのは、私が経営の師と仰ぐ方だった。
今でも一年に数回お会いするが、もう八十歳近いはずである。
それでも年齢を感じさせないほど元気に働いていらっしゃる。
その方がこう言った。
男性は三つの道のどれかを歩く。
仕事。
趣味。
家族。
多くの男性は、そのうちの一つに偏ってしまう。
頑張れて二つ。
もし三つ全てを大切にできる了見があるならば一流だ。
そんな話だった。
仕事だけに集中すればどうなるのだろうか。
人間関係も地位も名誉も達成感も、すべて仕事の中に求めるようになる。
やがて趣味を持つ人を理解できなくなり、家族をないがしろにしてしまうかもしれない。
では趣味だけに集中したらどうだろう。
家族だけだったらどうだろう。
もちろんこれは極論であり、誰にでも当てはまる話ではない。
けれど私は最近、この言葉を思い出す機会が増えた。
先日、ある相談を受けた。
内容を一言で表せば、
「三十歳になっても、ゲーム漬けの娘が部屋から出てこない」
というものだった。
娘さんは大学を卒業後、大手上場企業に就職した。
社会人一年目、二年目と順風満帆。
田舎から都会へ出て、一人暮らしを始めた。
なかなか様子を見に行くこともできなかったそうだ。
ところが二年目の夏。
何となく胸騒ぎがして、お母様は娘さんの部屋を訪ねた。
電話では分からなかった。
声だけでは気付けなかった。
だが実際に部屋へ入ると、そこには別人のような娘さんがいた。
大きなヘッドホンを付け、画面に集中している。
母親が部屋に入ったことにすら気付かない。
パソコンの周囲には食べかけのカップラーメン。
コンビニ弁当の容器。
配達された食事の残骸。
それらが積み重なり、まるでゴミ溜めのようになっていた。
洗濯されたのか分からない服がベッドを埋め尽くしている。
唯一整然としていたのは、仕事へ着ていくためのスーツだけだった。
その場で口論になったそうだ。
しかし娘さんは言った。
「仕事はしている」
「問題ない」
確かに仕事は続いていた。
お母様は何も言えなくなり、部屋を少し片付けて帰った。
新幹線で二時間の距離。
頻繁に通えるわけではない。
下のお子さんの受験もあり、電話の回数を増やすことしかできなかったそうだ。
そして今年。
会社から電話があった。
「連絡がつかないのですが、大丈夫でしょうか」
顔色が悪く、体調もかなり悪そうだった。
無断欠勤が続いているという。
今の時代、無断欠勤を心配して連絡をくれる会社は少ないのかもしれない。
きっと仕事ぶりは良かったのだろう。
この相談を受けた時、私はすぐにある光景を思い出していました。
出張中。
移動中。
空港でも、電車の中でも、街中でもよく見かける光景です。
目の前にどれほど綺麗な景色があっても見向きもしない。
どれほど多くの人が周りにいても、そこに意識が向かない。
人にぶつかりそうになりながらも、スマホの画面を見続けて歩いている人たち。
ただ立っているだけに見えて、
実際にはどこかへ引っ張られ続けている人たち。
私には、時折それが見え、嫌な気分になることがあります。
スマホやパソコンの画面から、
紫色の小さな竜巻のようなものが渦を巻いている。
それは静かに、
しかし確実に、
その人の意識を吸い上げているように見えるのです。
狩られるだけの人間。
引っ張られるだけの人間。
家畜のようになってしまった人間。
もはやそれは、趣味と呼べる段階ではありません。
ただ吸われている。
映画「マトリックス」では、人間が電池のように描かれていました。
現実の世界では、
念を、
生命エネルギーを、
魔に吸われ続けている人たちがいる。
もちろん、ゲームをするすべての人がそうだと言っているわけではありません。
ゲームが悪いと言いたいのでもありません。
仲間との時間。
気分転換。
技術を磨く喜び。
そうした健全な楽しみとしてのゲームも、当然あります。
けれど中には、
遊んでいるのではなく、
遊ばれている人がいる。
楽しんでいるのではなく、
吸われている人がいる。
その違いは、とても大きいのです。
相談を受けた私は、お母様にこう伝えました。
「三十代なら、まだ大丈夫です」
これは慰めで言ったのではありません。
これまでも、同じような相談を何度も受けてきました。
部屋から出てこない。
昼夜逆転している。
ゲームをやめられない。
家族と会話をしない。
仕事を辞めてしまった。
学校に行けなくなった。
そうした相談は、本当に少なくありません。
そして、そこから少しずつ戻っていく人たちも見てきました。
失われた十年。
失われた二十年。
そんな言葉を耳にすることがあります。
けれど私は、実際には「失われた」というよりも、
その間の記憶がほとんど残っていないのではないかと思うことがあります。
毎日同じ部屋。
同じ画面。
同じ時間。
同じ刺激。
同じ繰り返し。
そこには、人生の喜怒哀楽が入り込む隙間がない。
悔しい思いをすること。
人に傷つけられること。
誰かに救われること。
失敗して恥をかくこと。
小さな達成感を得ること。
人を好きになること。
誰かとぶつかること。
そうした経験が、ほとんど置き去りになってしまうのです。
だから、部屋から出てきた人たちは、
少し遅れて人生を始めるように見えることがあります。
二十代で経験するはずだった失敗を、
三十代で経験する。
三十代で経験するはずだった苦労を、
四十代で経験する。
それを見た親御さんは、時に私へ愚痴をこぼします。
「せっかく良くなったと思ったのに、また悩んでいます」
「仕事のことで落ち込んでいます」
「人間関係で苦しんでいます」
「恋愛で傷ついています」
けれど私は、その話を聞くたびに本心で思うのです。
良かったですね、と。
あのまま部屋の中に居続けていたら、
絶対に経験できなかったことです。
悔しさも、
悲しさも、
苦しさも、
喜びも、
達成感も、
すべて人生に必要なものです。
人は、苦しむためだけに生きているわけではありません。
しかし、苦しみをまったく知らずに、
本当の喜びだけを味わうことも難しい。
人生の酸いも甘いも噛み分けながら、
人は少しずつ大人になっていくのだと思います。
だから、遅れてでもいい。
三十代からでもいい。
四十代からでもいい。
部屋の外に出て、
人と関わり、
失敗し、
傷つき、
それでも何かを感じられるなら、
それは大きな回復なのです。
人生には三つの道があるそうです。
仕事。
趣味。
家族。
そのどれか一つだけでも、しっかり歩むことができれば、
人は生きがいの素である達成感を得られるのかもしれません。
二つ歩めれば、十分に幸せです。
三つすべてを大切にできるならば、
それは一流の了見なのだと思います。
けれど、趣味の道を歩いているつもりが、
いつの間にか魔に引きずられていることがあります。
楽しんでいるつもりが、
支配されていることがあります。
自分で選んでいるつもりが、
実は選ばされていることがあります。
今回の相談者のお母様の話を聞きながら、
私はその日の朝にやりとりをしていた別の親御さんのことも思い出していました。
似たような悩みを抱え、
同じように子供を案じ、
どうすればよいのか分からずに苦しんでいる親御さんです。
見えない世界の影響は、
霊媒体質の方にとって、
逃げ出すことも、
解放されることも、
簡単ではありません。
けれど、だからこそ早い方がいい。
違和感を覚えた時。
何かおかしいと感じた時。
心配だけれど、どうしてよいか分からない時。
そのまま見過ごさないことです。
ゲームが悪いのではありません。
スマホが悪いのでもありません。
問題は、
それを使っているのか、
それに使われているのか。
そこなのだと思います。
魔に囚われた人は、
自分が囚われていることに気づきにくい。
だからこそ、
周りの人の違和感が大切になるのです。
三十代なら、まだ大丈夫。
四十代でも、遅すぎるとは思いません。
ただ一つ言えるのは、
人生は部屋の中だけでは経験できないということです。
喜怒哀楽も。
達成感も。
人との縁も。
生きている実感も。
画面の中だけでは、決して満たされないものがあります。
その人が本来歩むはずだった道へ戻れるように。
その人の人生が、再び動き出すように。
私は今日も、
そう願っています。
シックスセンス管理人

