夕方。
404の部屋は、少し蒸していた。
悟は机の上に広げたノートを閉じた。
文字は書いている。
でも、頭にはあまり入ってこない。
窓の外では、初夏の風がカーテンを揺らしていた。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
「母ちゃん」
悟は、小さく笑った。
通話ボタンを押す。
「もしもし。」
「悟ね?」
母の声だった。
長崎の、いつもの声。
「うん。」
「元気ね?」
「うん、元気ばい。」
少し沈黙が流れる。
母が言った。
「……なんね。」
悟は黙った。
「声に張りがなかね。」
悟は笑った。
「そんなことなかばい。」
「そうね。」
母はそれ以上言わない。
でも続けた。
「ちゃんと食べよる?」
「食べよる。」
「寝よる?」
「寝よる。」
また少し沈黙。
電話の向こうで、風の音がした。
「まあよか。」
母は、いつもの声に戻る。
「無理すんな。」
「うん。」
「たまには帰ってこい。」
「金なか。」
母が笑った。
「そがんやろ思うた。」
悟も笑った。
「また電話するけん。」
「うん。」
通話が切れる。
部屋はまた静かになった。
悟はスマートフォンを机に置いた。
(声に張りがなか、か。)
少しだけ考えた。
でも。
(まあ、ええか。)
悟は立ち上がった。
今日は、由子と会う約束がある。
それだけで、胸が軽くなる。
大学。
山岳部の部室は、いつものように騒がしかった。
ザックが転がり。
誰かがパンを食べ。
誰かが次の山の話をしている。
悟も、その中にいた。
笑っている。
話もしている。
そのとき。
「さとる〜。」
佐々木がからかうように声をかけた。
「ん?」
佐々木は悟の顔を少し見て言った。
「ちゃんと寝とる?」
悟は笑った。
「寝とるばい。」
「ほんとか。」
佐々木はパンをかじりながら言う。
「なんか顔、疲れとるぞ。」
悟は肩をすくめた。
「山行っとらんけんやろ。」
佐々木は、ふーんと言った。
そして、にやっと笑う。
「彼女と遊びすぎやろ。」
部室が笑いに包まれる。
悟も笑った。
「そがんことなか。」
でも。
胸の奥に、母の声が少しだけ重なった。
声に張りがなかね。
悟は首を振った。
(気のせいやろ。)
夕方。
駅前の小さな公園。
悟は、少し早く着いていた。
ベンチに座る。
空はまだ明るい。
初夏の風が吹いている。
遠くで電車の音がした。
足音がする。
振り向くと、
由子….。
(かわいか……。)
白いシャツ。
淡い色のスカート。
風で髪が揺れている。
悟の胸が、少しだけ高鳴った。
「待った?」
「いや。」
「ほんと?」
「うん。」
由子が笑う。
その笑顔を見ると、悟の胸の奥が軽くなる。
由子が隣に座り、
肩が少し触れる。
アンテナが、静かに揺れる。
でも。
今日も、それが嫌じゃない。
むしろ、心地いい。
由子が言った。
「ねえ。」
「ん?」
「この前の山、また行きたいね。」
悟は笑った。
「行こうや。」
「ほんと?」
「うん。」
由子の目が、少しだけ輝いた。
「夏になったらさ。」
「うん。」
「海、ちゃんと見える山行こうよ。」
悟は笑った。
「俺の島の海の方が綺麗ばい。」
「ほんと?」
「うん。」
由子が笑う。
その笑顔を見ると、悟の胸の奥が温かくなる。
由子が、そっと手を握った。
ぎゅ。
温かい。
柔らかい。
悟も、握り返す。
由子が小さく言う。
「悟といると、安心する。」
悟は少し照れた。
「そう?」
「うん。」
由子は前を向いたまま続ける。
「なんか、静かになる。」
悟は何も言わなかった。
ただ、手を握り返した。
初夏の風が吹く。
二人の影が、長く伸びていた。
夜。
404の部屋。
窓はいつものように少し開いている。
風がカーテンを揺らしていた。
由子が、悟の胸に顔を寄せている。
呼吸が、ゆっくり重なる。
悟は、その背中に手を回した。
温かい。
何も考えなかった。
母の言葉も。
佐々木の顔も。
そのときは、もう遠かった。
アンテナは立っている。
それでも。
今はまだ、
それよりも恋の方が強かった。
由子の髪が、頬に触れる。
静かな夜だった。
悟は、目を閉じた。
(幸せやな。)
風が通る。
カーテンが、もう一度だけ揺れた。
その夜は、
とても静かで、
とても、
幸せだった。
(第十二話へ)


