倭薈(いわい)の母を祀る「長谷寺」も九州から大和に移築された(米田史学) | 6rosui8のブログ

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672年倭国滅亡後、法隆寺、東大寺など多くの寺院が九州から大和に移築されたが、長谷寺もその一つだった。しかし「磐井の乱(531)」で知られる倭王倭薈(いわい)は大和朝廷にとって逆賊だったので、その母を祀る長谷寺の移築はカモフラージュされている。

 

長谷寺は517年に倭国に創建され、その後721年には大和の初瀬に移築されている。その後、何回もの火災焼失記録があるが虚偽と断定できる。大本堂が火災で焼失したなら、巨大な木造観音立像も焼失したわけで、材料手配や施工など時間的にも再建はほとんど不可能。

 

本堂に安置される長谷観音は(倭薈(いわい)の母、息長足姫=神功皇后)を祀るもので、高さ10m近い巨大な女性立像。1本の木から彫り出されている。力強く写実性に富んだ優れた仏教彫刻であることはあまり知られていない。彫刻として稀有の作品である。

 

本堂は大悲殿と呼ばれ、9間×9間の堂の前に舞台がついた巨大な鞘堂であり、他に例を見ない。観音像を、遠近5つの地点で拝することが可能で、現代のどの美術館建築と比べても引けを取らない展示空間を作っているという。改修工事を経てきてはいるが、世界最古の木造建築でもある。

 

このように、長谷観音や本堂は類例のない優れたもので、6世紀初期倭国の文化レベルの高さを示すものだと考えられる。