国父磐井(米田史学) | 6rosui8のブログ

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531年「磐井の乱」とされている出来事は、近畿扶桑国の継体軍の侵略奇襲による九州王朝の国王磐井、后、王子の殺害事件。それは2月で宇佐市小倉山だった。小倉山は聖地になり東大寺や薬師寺が作られ、国王磐井は阿弥陀如来として祀られた。東大寺2月堂お水取り、松明は継体軍の焼き討ちの記録。

 

東大寺2月堂の「お水取り」。真冬の夜、多数の燃えたぎる松明を移動させながら堂の舞台を巡る。これは一体何だろう、そしてなぜ2月堂なのかと疑問を抱いていた。これは要するに「磐井の乱」とされる継体軍の2月の焼討ち攻撃の惨劇を後世に残すための行事なだ。元は九州小倉山にあった東大寺が。

 

なぜ国王磐井は国父なのか。倭の五王の最後の王、武と神功皇后の間にできた息子が磐井だ。日本列島はすでに統一され、朝鮮半島にも新羅に軍を駐留させ、仏教が隆盛し、倭国が最も栄えていた時代。善政が布かれた。乱で殺害された後は阿弥陀如来として祀られ信仰の対象として各地に広まった。