古代ギリシャの『薬物誌』が植物の図化の始まり
ボタニカルアートは科学と芸術の融合から生まれたアートだといえます。その起源は有用な薬草を見分けるために、植物を調べて図化したことにあり、植物学の領域で発展したものです。
近代科学が発達するはるか昔の古代ヨーロッパの時代から、草花や樹木を精密に描いて分類し、植物を病気の治療などに利用することが行われていました。
古代ギリシャの医者で植物学者のペダニウス・ディオスクリデスは、薬草をまとめた本草書『薬物誌』(マテリア・メディカ)を紀元1世紀に編集しました。優れた内容であったため、18世紀までの長きにわたって西洋の薬学・医学の基本文献となりました。もともとはテキストのみでしたが、本草学者のクラテウアスが描いた植物の精密画約400種が、のちに取り入れられました。
植物画の入った『薬物誌』は中世の時代に膨大な写本が作られ、一部が現存しています。中でもコンスタンチノープルで発見され、ウィーンの帝室図書館に収蔵された「ウィーン写本」(6世紀)が有名です。
宮廷の貴族文化の中で鑑賞用絵画として発展
『薬物誌』は医学・薬学の観点から制作されましたが、写本から写本へと写されてゆく過程において、医学的な実用書から美術的な観賞用のアートへと変わってゆきました。
宮廷を中心とした貴族文化が栄えた17世紀~18世紀のヨーロッパでは、貴族や裕福な市民の間で植物への関心が高く、植物庭園やボタニカルアートの鑑賞が人気でした。この時代には多くの植物画家が活躍し、アートとしてのボタニカルアートを愛好する人が増えてゆきました。
18世紀のイギリスでは女性の教養のひとつに、植物学や水彩画を学ぶことがありました。植物学を学び、絵の描き方を身につける中で、植物画家として活躍する女性が登場します。
中には、夫に先立たれ、家計を支えるために始めたボタニカルアートで才能を開花させた女性も。女性の人権運動が始まった当時、女性画家を生んだボタニカルアートがその活動の後押しになったとも考えられています。
マチルダ・スミスについて
マチルダはインドのボンベイで生まれ幼少期に家族一緒にイギリスへ移り住みました。 いとこのフッカーは植物学者でありマチルダは彼の影響を受けて植物学や植物画への関心が高まりました。 その後、植物画家を育成するためにマチルダは植物園に採用されます。 1787年にウィリアム・カーティスがカーティス・ボタニカル・マガジンという植物画雑誌を創刊しました。 それまで図版を描いていたウォルター・フィッチと報酬について対立し 1877年にフィッチがボタニカル・マガジンの仕事をやめたことでマチルダはその仕事を継ぐことになり 1879年から1881年の間に毎号20点ほどの植物画を描き 1887年までにほとんどすべての図版はマチルダが描くようになりました。 1921年に女性としては2人目となる イギリスのロンドンにある世界で最も古い博物学の協会である ロンドン・リンネ協会の会員に選ばれました。
当時の女性画家
19世紀、世界は大きく流れを変えていた大規模な社会変革で 大西洋を挟んだ両側の大陸に住む女性達の生活にも大きく影響していきました。 産業革命は貴族や僧侶などの上層階級と労働者などの下層階級の間の中間階級を増加させ 女性の選挙権の獲得、教育改革への変革は、女性に自由と解放をもたらしました. しかし、同時に新たに勢力を増した中間階級の女性には 家庭が中心であり結婚して母親になることこそが幸せである ということが幸福のバロメーターになり 女性としてのたしなみ、花嫁修業が教育になっていきました。 パリでも、ボストンでも、ロンドン、ニューヨークであっても ヴィクトリア朝風の女性が流行っていました。 女性の芸術家にとって 女性が家庭というものにアイデンティティを見出すという風潮は 世間からの非常な仕打ちを強いられる要素になっていきます。 当時の社会では女性の活動を否定する男性の嫌がらせが多くありましたが そんな中で女性たちが考えたのは法律的な許可を得て男装することでした。 それが女性が公共の場で一人で行動する危険を回避する方法であり この男装という方法で 女性たちはやっと自由に家庭の外へ出て研究することが可能となりました。
写実主義から印象派へ
19世紀後半から印象派の発達とともにアカデミックな 現実をありのまま、そのままに表現する写実的な絵画は否定されていきます。 それに代わって 近代的な都市生活、中産階級の余暇、家族生活、 あるいは劇場やカフェに集う人々などを瞬間的な光だけでなく それが時間とともに変化していく様子を光と色彩で描く風俗画が好まれていきました。 小さな女の子や少女、母親、婦人などを描いた彼女達の作品は当時革新的で アメリカでも19世紀後半になると多くの女性の画家は 正式な主題として家庭生活を描くようになっていきます。
