文学論争 | SM鹿鳴館復興計画

文学論争

 読書感想会は鹿鳴館らしいイベントだった。同じ本を読んで、同じものを観て、それについて語り合おうというのである。最初の頃は、このイベントに人が集まった。しかし、その集まりはすぐに寂しいものとなった。
 一度、来ただけで来なくなる人が意外なほど多かった。
 理由はかんたんである。他人とのきちんとした、きちんとしたとは、つまり、論理的なコミュニケーションがとれないからなのだ。本を読んでも、よかった、面白かった、それしか言えないのだ。どこがどう他の本と違うのか、何が具体的に面白いのか、その作家の魅力はどこにあるのか、そうしたことを生き生きと語ることが下手なのだ。
 日常を感情で生きている結果なのだろう。面白い、つまらない、いや、そんなこと以前の問題にあるかもしれない。つまり、その作家が好きな自分は格好いいとか、その小説を読んだ私ってすごい、というような次元でしか生きていないのかもしれない。それでは、感想などない。自分が気分で面白いと思うものを他人につまらないと具体的に攻撃されると、すぐにへこんでしまう。
 私がまだ格闘技のジムにいた頃、しばしば、格闘技オタクがジムを訪れた。彼らは、そのパンチや蹴りを注意されると、すぐに、自分には自分のやり方がある、と、反論した。どんな理論でも、その蹴り方はないんだ、と、言っても、彼らは聞く耳を持たない。自分はそのやり方でやってきたのだ、と、そう言うだけだ。そして、すぐにジムには来なくなる。
 同じことを私はサロンでも見ることになった。一つの考え方について深く追求すると、その人は自分が攻撃されたと勘違いして感情的になってしまう。感情的になっていることを指摘すると、バカにされた、と、勘違いしてしまう。きちんと論を延べ、それを闘わせることに慣れていないのだ。そして、すぐに来なくなる。天狗でいられる自分の場所にもどるのだろう。格闘技オタクたちが、ゲームセンターなら強者となれるように、その人たちは、自分がお山の大将でいられる場所に帰って行くのだ。
 それは寂しかった。サロンのイベントが廃れていくのは、もちろん、寂しかった。しかし、それ以上に、学問や文学を遊べない人たちがあまりに多いというのが寂しかったのだ。