奴隷の旅。
動物になりたい。
人という
姿かたちに
飽き飽きしてしまったようだ。
スーツを着て
電車を乗り継ぎ
会社に向かわねば
という
人々と
一秒たりとも
時を共にしたくない。
想像した言葉が
そのまま帰ってくる。
空気を崇拝する
カルト宗教信者のようなもので、
吐き気しかしないのだ。
各地から
すし詰めスーツの列車が
流れてくる。
よくも
ここまで操られるものだ。
綺麗なカーブの皿に
米や野菜を乗せて食べる行為が
おかしくてしかたがない。
ただただ
誰かが決めた道を
強制的に歩かされている。
毎日毎日。
街中には
想像の範囲内を
ウロウロする
パレードとも言えない
人肉の流れが
あるだけ。
僕の人生も
退屈な奴隷そのものだ。
下水道から汚れた川に
決められた
流れかたを
無表情に繰り返すだけの
心臓と体。
こんなもの
必要なのか。
まぶしい水は
一部の人間が
飲み干してしまう。
ここ二年は
自分自身がしないだろうと
思っていたことをしている。
旅は
原始的な
歩きという手段を使った。
日本というものを
歩いて移動してみようと
考えた。
スーツの奴隷よりも
少数民族、
ヒッピーや放浪者と触れ合えば
心は解放される。
自らの怠惰すらも
愛おしく思えた。
流行りの努力なんてものは
大きな意味を持たず。
まず
自分の言葉で話し
自分の判断で歩けば
偶然や奇跡は
当たり前に
やってくる。
特に驚きもなくなってくる。
これが動物的感覚か。
移動しているようで
止まっている人間と
触れ合う理由がない。
退屈という名の影は
いつでも自分の
母親や父親だった。
しかし
いつでもどこでも
人間は
やめたい。
死ななくとも
社会から外れて
生きる道は
無数にある。