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ためしに始めて見たのです♪

説経節にみる小栗判官伝説[編集]

正本として、延宝3年(1675年)「おぐり判官」(作者未詳)、年未詳「をくりの判官」(佐渡七太夫豊孝)その他がある。

鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず交わり、妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れて隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になる。このために7日間も暴風雨が続き、小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵・相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、彼に頼んで照手に文を渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は10人の家来とともに、照手姫のもとに強引に婿入りする。これに怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原で土葬に、家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受け、千手観音の加護により難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、もらわれた美濃国青墓宿の万屋でこき使われる。

一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗の墓から現われたのを見た上人は手紙を読み、餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せると胸の木札に「この車を引くものは供養になるべし」と書きしたためた。多くの人に引かれた車は美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた照手姫は餓鬼阿弥が小栗であると知らずに5日間に渡って大津まで車を引き、ついに熊野に到着する。熊野・湯の峰温泉の薬効にて49日の湯治の末、小栗の業病は完治し元の体に戻ることができる。その後、小栗は京に戻り天皇により死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた。

 

4世紀ごろに熊野国造の大阿刀足尼によって発見され、後に歴代の上皇による熊野御幸によってその名が広く知られるようになった[4]。古より熊野詣の旅人達はここで湯垢離を行って身を清め、長旅の疲れを癒していたとされる[4][5][6]。この温泉には「一遍上人名号碑」或いは「爪書き岩」などと呼ばれる、時宗の開祖である一遍が、経文を爪で刻み込んだと伝えられる岩が現在まで残っている[4][11]。また中世の説経節「小栗判官」においては、餓鬼阿弥の姿となってしまった小栗判官が、この温泉での湯治によって元の姿に戻ったという伝説も残されている[4][12]。

温泉の中心部には、天台宗の寺院である東光寺が位置している。東光寺の本尊は湯の峰温泉の源泉の周囲に湯の花が積もって薬師如来の形となったものであり[2][13]、その本尊の胸から温泉が噴出していたことから「湯の胸温泉」と呼ばれていたものが転じて「湯の峰温泉」の名になったとされている[2][14][15][16]。

湯の峰の評判は、平安時代後期の公卿・藤原宗忠の日記『中右記』や、鎌倉時代前期の公卿・広橋頼資日記『頼資卿記』など、熊野詣を行った中世の貴族たちの日記にも記されている。熊野御幸の時代にも、皇族や貴紳がこの地を訪れたが、それらはあくまで休養としてのものである。熊野詣との関連で、湯垢離(ゆごり)による潔斎の場としての地位を獲得するのは、熊野御幸の盛期を過ぎた14世紀頃からであると考えられており、室町時代に入ると旅の疲れを癒す意味もあって参拝前に入浴したという。この時期には、熊野の地で修行に励んだ一遍もこの地を訪れている。

しかし、近世には、西国三十三所の優越とともに、潔斎の場としての意義は薄れ、単なる湯治場としての性格が勝ってくるようになった。また、江戸時代に作成された温泉番付では、「本宮の湯」として勧進元に名を連ねている。名の由来となった湯峯薬師をまつる東光寺、熊野九十九王子のひとつ湯の峰王子が温泉街内に今もある。

1957年(昭和32年)9月27日、厚生省告示第310号により、熊野本宮温泉郷の一部として川湯温泉、渡瀬温泉とともに国民保養温泉地に指定された。毎年10月には川湯・渡瀬両温泉と共に献湯祭を開き、熊野本宮大社に献湯している。