14世紀の中世北イタリア。


主人公は、見習い修道士のアドソ(ショーン・コネリー)。


師のウィリアム修道士と、フランシスコ会とアビニョン教皇庁の論争を

調停するために、とあるベネディクト修道会の修道院に訪れる。


しかし修道院に来ると、次々と不思議な事件が起こる。

 

 

 


 

 

殺人事件の推理で歴史を解読していく魅惑的な脚本と演出が素晴らしい。


監督のジャン・ジャック・アノーの力量も大きい。

 

中世のキリスト教の修道院内での殺人事件はなぜ起きたのか。


次々と奇怪な殺され方をするのはなぜか。

 


<大いなる秘密>が暴かれていく。


ラストであっと言わせてくれる。


撮影・衣装が美しい。


アドソ役のショーン・コネリーの演技は、彼を超える俳優は未だ出ていないと思わせてくれる。

 

 

作者のウンベルト・エーコの博覧強記は、本で読むと眩暈するしてくるが、映画はとてもわかりやすい傑作として出来上がっている。

 

推理物として第一級だろう。


学者のエーコは、中世からルネサンスへ移ろうとする時代の中に大きな出来事があったことをわかりやすく説明するために、推理小説という形式を使ったのだろう。

 


ヒントは、図書館という<知の迷宮>だ。


その空間を見せる神秘的なシーンは映画史に残るだろう。


大好きなシーンだ。

 

 

 

 

 

 

当時の修道院の生活や、図書館はどのような意味や役割を持っていたのか。


西洋史の本質を鮮やかに教えてくれる。

 

ルネサンスは<人間復興>と学校で習ったが、映画を見るまでピンとこなかった。

 

 

キリスト教にとってギリシャの自然哲学は、認めたくない部分があった。

 

ヨーロッパがキリスト教的な価値観で生きていたとき、


イスラム世界は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)・オスマン帝国へと進む中で、ギリシャ哲学を、ギリシャ語からアラビア語に翻訳してかなり研究していた。

 

 

後々イスラム史とギリシャ哲学の歴史を調べていると、様々なものがヨーロッパよりイスラム世界が進んでいたと知り驚いた。

 

 

中世ヨーロッパでは、ラテン語でなくギリシャ語で原典を読んでいたのか。


しかもきわめて限られたひとしか知らない。

 

 

中世は、<知の停滞>でもあったのか。宗教権力が強大だったからだろう。

 

このころのキリスト教の思想とイスラム哲学の比較研究は重要だ。


ギリシャ哲学からルネサンスの思想が芽生えてくるからだ。

 

ラファエロの絵画にプラトンやアリストテレスが現われるのはその証拠。(アテナイの学堂)

 

 

権力にとって、都合の悪い情報は隠したがるものだ。封印だ。

 

ギリシャ哲学者(自然哲学)が書いた本の中で、キリスト教が嫌がったのは何かがラストで明かされる。

 

エーコについては「フーコーの振り子」も面白い。

 

 

今も権力(国家だけではない)が情報を歪曲したり、フェイクニュース化


したり封印している。

 

情報操作・メディアコントロール・印象操作だ。

 

SNSやニュースで操作された情報が流れてはいないか。


サイバー攻撃も含むだろう。

 


現在は、言葉や知の重要性について改めて考えるときなのかもしれない。

 

この映画が示唆するものはそれだ。

 

わたしたちは、そのような情報に振り回されない知が必要になってきている。

 

メディアリテラシー(メディアからの情報を見極める能力)の時代だ。

 

 

時代の変化のなかで大切なものを見失わないようにしたいから。