こちらの記事についてですが、諸々の理由を踏まえ、アメンバー記事にさせていただきました。
ですがそのうち、全体公開にはします。
全体公開とアメンバー限定(実質非公開)を今後は繰り返していくと思います。
強い言葉は使いましたけど、この記事を作成したことに後悔はないので……
こちらの記事についてですが、諸々の理由を踏まえ、アメンバー記事にさせていただきました。
ですがそのうち、全体公開にはします。
全体公開とアメンバー限定(実質非公開)を今後は繰り返していくと思います。
強い言葉は使いましたけど、この記事を作成したことに後悔はないので……
前回のブログからだいぶ経ちました。
父の一周忌で叔母達と衝突したり、祖母との大喧嘩が何度かあったり。
その一方でフォロワーさんとオムライスコラボへ行ったり、羽田空港のシモツキンイベントへ参加したり。
彼氏さんとのデートは毎月、楽しく過ごさせていただいたり。
でも11月後半から鬱が重くのしかかってきて思うように動けなくなったり。
2025年は、穏やかに過ごせたり、感情が爆発したり、2024年の傷が疼いて苦しくなったり。
そんな2025年の年の暮れ、クリスマスの日。
祖母が脳出血で倒れました。
すぐに救急車を呼んだけれど病院について意識を失い、そのまま年明けの1月4日に亡くなりました。
私は、叔母の計らいなのか何なのか、祖母の最期を見ることなく、祖母の骨壺と対面して終わりました。
クリスマスからの感情を、どう表現していいかわかりません。
祖母を失った、一人になった、その感覚がまだ来ない。
きっと1年後とかに来るんでしょう、私だから。
父の悲しみが1年過ぎてから来るようになったのだから、きっと祖母を失った悲しみも、後々にならないと来ない。
きっと祖母の骨壺を前にしても”平然としていた”ように見えた叔母には、冷たい人間に思われたでしょう。
1年半我慢すれば、もっと楽な生活できたよ、父。
この1年半は、私にとってはただの虚無だったよ。
その虚無が、今度は永遠になったよ。
全部貴方のせいにするね。
グループホームに入る予定でしたが、色々叔母や市役所の方、障碍者支援の担当の方と話して、私は今の家で一人暮らしをすることになりました。
35年と12か月、一人暮らしなんてしたことない。
一人で暮らしたことなんてない。
そんな私に、この先生きることができるのでしょうか?
どうして私が生き残ってしまったんでしょうか。
どうして一番厄介者と言われた私が、生きてるんでしょうか。
気づいたらそればかり頭の中をぐるぐると巡っています。
年末年始、たくさんの人に助けてもらいました。
そのご恩を、私は今一人一人に返すことができません。
できることとしたら、一年後も生きていること。
一年後生きていたら、また一年、さらにまた一年。
生きることでしか、恩を返すことができません。
何もない私に「生きてほしい」と思ってくれる人達は、どうしてそう思ってくれるのでしょうか。
本当に何もなくなった私だけど、この世界に生きていっていいのでしょうか。
時々「おいで」という声が頭の中で響く。
きっとその声に耳を傾けちゃいけない。
私が耳を傾けなきゃいけないのは、今度こそ耳を傾けて話を聞かなきゃならないのは、自分の頭の中じゃなくて、周りの声だから。
どうか、この世界に生きることを、許してください。
今日は中学時代の友達3人で、久々にカラオケへ行きました。
このメンバーで行くのも本当に久々。
私に至っては、たぶん友達の1人と遊ぶのも久々。
この2人は、私が中学の頃からの友達。
とても長くて、何度も迷惑をかけて、でも今でも友達でいてくれる、本当に感謝してもしきれない友達。
私から人は離れてく。
先月も、SNSの友達から突然縁を切られた。
原因は何となくわかってるけど、これは私は悪くないなって感じのこと。
向こうにとっては本当に許しがたいことなんだろうけど……
昨年、色々あって私が正常じゃないせいもあったけど、とても大切な人と縁を切った。
それが本当に辛くて、でもその時も、この2人に話を聞いてもらって、ギリギリ持ち直すことができた。
その切れた縁を受け入れるまで、ものすごい時間がかかったし、向こうもこれ見よがしなことをしていたから、尚更辛かった。
でもSNSの、頻繁にやり取りしていた人達との縁が切れても、寂しくない。
何となく、いずれは切れる縁だとも思っていたせいかもしれない。
ゲームで仲良くなった人たちだけど、先月縁の切れた人に関しては、私自身がもう疲れていたのもあったのかもしれない。
「肯定しなきゃいけない、否定はしちゃいけない」
「承認欲求の塊(自覚はしてるけど改善しようって努力も見えない)」
何より私の相談に対してあまりに適当な答えしか返さない。(私はものすごく考えたし、ものすごく丁寧に一時期返してた)
彼氏の話をしたときは裏垢で「聞きたくないことを聞いてしまった」みたいなことを言っていた。
私がクリスマスにオフ会でワクワクしてたら、やっぱり裏垢で
「自分が楽しめないのに相手におめでとうなんて思えない」
みたいなことも言っていた。
自分自身が何より可愛い、とても我儘な人。
本当は私のほうから切るべきだったかもしれない。
そんな人はたくさんいる。
でもその時に、私はいつも「その人と繋がってる共通の人への説明をどうしよう」ってなって、なかなか踏み出せない。
その間に自分のストレスは溜まる。
なんていうか、SNSの友人というものへの疲れそのものが、溢れ出していたのかもしれない。
もちろん、とてもいい関係の人達もいる。
距離感なんだろうな、って思う。
本当は、踏み込むべき人間関係に踏み込めない私が悪い。
でもそれを、今の年齢でしようとも思わないし、それが原因で拗れるならと思うと、怖くてできない。
楽しく話していても、心のどこかで一歩引いてる。
引かなきゃいけないと思ってる。
今日遊んだ友達は、そんなしがらみを私が一切感じない、相手は私のことを本当に知ってくれていて、熟知してる人。
だから私も、心の距離感を感じずに話すことができるし、接することができる。
なんていうのかな。
息苦しさを感じない。
言葉を極端に選ばなければならない相手じゃないから、話しやすい。
そんな友達。
あとは、そうだな……
こんなこと思うべきではないのだけれど、「こんな私」とも友達でいてくれる人達。
私は全てにおいて劣ってるし、できること何もない。
そんな私でも対等に見てくれて、話しをしてくれる人達。
昔からずっと、感謝しかないけれど……
昨年の父の自殺から、父の自殺を知っても、変わらず、むしろ父がいなくなってわからないことが多い私に、色々なことを教えてくれる。
この一年で、私ができるようになったことは本当に少ないけれど、どこで買い物するのが安いとか、色々学ぶこともできた。
それも全部、友達が教えてくれたおかげです。
今日は本当に楽しかったなぁ。
大型連休も明日でおしまい。
この大型連休が終わったら、心を鬼にして、頑張りたい。
前回のシモツキンライブから1年が経ちました。
この1年、色々なことが私の中で変わりました。
その、自分のご褒美だと思って土曜日のライブには参加しました。
ご褒美その1、父の自殺の件の後始末に諸々頑張っていること。
人一人亡くなることは、その人がやっていたこと、その人の諸々の名義変更やら解約やらが必要になるということです。
私はそれまで、祖父が亡くなったときノータッチでいました。
何にもわかりません。
父からは生前「○○会計事務所、ここ覚えといてね」しか言われませんでした。
いざ父が亡くなって、そんな言葉はスマホのメモに入っていたけど頭にはありませんでした。
なので叔母が一つ一つ調べて、父の遺したメモを頼りに解決していくしかありませんでした。
私が記入しなければならない事項はたくさんありました。
叔母が代わりに書いてくれていたものもありました。
私が書かなければならないものもありました。
書くだけで気持ちが削られていくような、そんな感覚も最初はぐっと抑え込んで、ポストに投函しに行っていた記憶があります。
ご褒美その2、10月から崩れ始めた自分の心の調子
覚悟はしていたけれど、実際はそれ以上のものが私に襲い掛かってきました。
それまでも父が亡くなった直後から私の頭の中には、無限ループで父の最期の光景が繰り返されていました。
それが負担になっていたのか、10月に入った途端涙を流すことが多くなりました。
泣きたいわけでもないのに止まらなくて、仕事を早退した日もあります。
10月はとにかくぐちゃぐちゃでした。
シモツキンイベントが唯一、色々なことを忘れられた思い出だったと思います。
自分が大切な人にやらかしてしまい、大きく傷つけてしまったこともありましたが、その裏でその人から傍から見たらわからないような攻撃もチクチクされていて、私のメンタルがやられていたのもありました。
私が悪いので我慢していましたが、最後は耐えきれず全部言って、相手をさらに傷つける発言となってしまいました。
何度も何度も、本当に何度もそれを繰り返してきたのが私なので、この方にそれをしてしまった以上、私はもうどれだけ反省しても、自分を見つめ直しても、またやるのではないか、やるだろうという気持ちで自分を諦めています。
でもこんな状態でもライブに向けて、お泊まり会に向けて気持ちを回復の方向に向けようとしてくれる友達たちがいて、本当に感謝の言葉では足りないくらい、感謝の気持ちでいっぱいです。
話はライブとだいぶ逸れてしまいましたが、当日は私なので8時に会場に到着しました。
流石に邪魔なのでお泊まりセットのリュックはパージして、のんびりマックでお茶をしたり、歩いたりして時間を潰していました。
フォロワーさんが10時到着予定ということで30分前には会場の前にといたのですが、急に涙が零れてしまい、割と周りが見るレベルで泣いてしまい、これはよくないと思って一旦ミニストップに逃げました。
ミニストップってこんなに離れてたっけ?って思うくらい足が重かったです。
その後のんびり戻ったらフォロワーさんがいて、どうするかって話になって「6階!(カラオケ)」ということでカラオケへ行きました。
声出なかったです(今週喋って歌って怒鳴ったのもあったので声帯は疲れてた)
今度はちゃんと元気な時に歌いたいなと思いました。
でもフォロワーさんが見せてくれたしぐれういちゃん可愛かった(*´ω`*)
その後物販列作って全部セットを購入後、お昼に。
お昼はフォロワーさん2人が追加しました。
私が「肉!お肉肉肉」とうるさいのでステーキのどんでお昼。
それでも時間があったのでサインライトにつけるストラップを100均で購入しましたが赤羽のダイソーは縦に大きい。
そして品ぞろえがよくわかんない。半日かけて探索してみたい。
昼夜参加しましたが、知らない曲が多くてむしろ新鮮でした。
ローゼンメイデン絶対来る!透明シェルター来るってイベントの時にはるかさんから聞いたもん!ってことで、ローゼンメイデン愛蔵版は本当に読んで大正解だったなと思っています。
ピチカート日和初耳でしたが可愛い……
金糸雀だって一瞬でわかる歌詞でした。
EXEC_ViiBaCi_MjiiRa/.は初耳だったけど、すごくかっこよくて震えました。
音源ほしいレベル……
今回のライブ、時々やっぱり涙が込み上げてきて、正直苦しかったです。
父は私がシモツキンライブに行くこと、シモツキンライブを通してクラスタさんと話をすることを、その話をすることをいつも楽しそうに聞いてくれていました。
「Lv5で小さな、少し薄汚れたシモツキンをぶら下げていたのは〇〇〇〇さん?」
「〇〇〇〇さんは今も仲良くしてくれていて、よかったね」
「〇〇〇さんは元気?いつも宴会でお世話になってるよね」
などなど、私が帰ってきたら話をしたりしていました。
今回のクラファンの新曲「蛍灯語り」は聞いていて、そんな曲ではないのに胸が締め付けられて涙も溢れました。
私はクラファンを一括払いはできても苦しくなるからと、父に「7月に〇万、8月に〇万~払っていくから」と、父に返済計画を6月に話していました。
でも父は私に面と向かって「クラファン、払わなくていいよ」って言っていました。
その時点で強烈な違和感があったのに、という後悔は今もあります。
自分はいなくなるから払う必要はないんだよって意味だったのかなって、何度も何度も思いました。
だから2月のcanoueライブは、父がくれた、最期のプレゼントだと思って大切に参加したいと思っています。
ライブが終わった後は打ち上げでした。
色々巡って、打ち上げはとてもおいしかった居酒屋さんでした。
私はお酒は一切飲まないのでフォロワーさん達が美味しそうに飲んでいるのを眺めながら頼んだものを積極的につまんでいましたが、どれも本当においしい料理で幸せいっぱいでした。
女体化が私たちの時代はまだ一般化していなかったねって話とか
テニプリの話とか
私の性癖は触手と幼女と獣(ポケモン)だけど、「触手飽きました」と言ったら「一周回った?」と言われたり(一周じゃないです、五周はしてます)
とてもおいしいお料理と楽しいお話で、本当に最高の時間でした。
このメンバーで日本酒会やりたいなぁ。私飲めないからひたすら話に参加するくらいだけど、おつまみくらいなら買い出し行ったりなんなりはできると思うし。
翌日はデザフェス行ったり、ライブの日はお泊まりをしたりしましたが、それはまた今度。
2月のcanoueライブ、楽しむぞー!!
父がくれた最後で最期のライブ、心から楽しめるように全力で仕事頑張るからね!!
僕はもう、演じなくていい。
演じる人はもうどこにもいないのだから。
僕という殻の中にいる必要はない。
笑っていい。
楽しんでいい。
自分の人生、めいっぱい、心から楽しいと思っていい。
ハロー、私。
ぐっばい、僕。
父が亡くなってから、もうすぐ2か月が経とうとしています。
SNS、主にX(旧Twitter)を見ている方なら存じているとは思いますが、私はたいへんギリギリの状態で活発に動いておりました。
(2か月分書くのはとても面倒なので割愛します)
また、このような出来事なので現在は鍵をかけてTwitterをやっています。
そのうち鍵を外したいなぁとは思っていますが、もうしばらく私の心境的には時間がほしいかなという気持ちです。
父が亡くなってから。
たくさんの方にお声がけいただき、励ましの言葉を頂いています。
本当に感謝しても言葉が足りません……。
その中でお盆休みは土曜日から木曜日まで、毎日Twitterのフォロワーさんや父が通っていたジムのオーナーさんに会いに行ったり、会って食事をしたり、カラオケをしたり……
私が、父が大好き、父が何よりも大切ということを存じている方々が、これは私の勝手な考えですが、私が父の後を追わないよう、まだこちらにはたくさん楽しいことがあるんだよということを伝えに来てくれたのかなと、そう思っています。
お盆休みで一度気持ちが解けちゃって、それ以来毎日泣いているような生活ですが、最初の頃よりはずっと気持ちも落ち着いてきている状況です。
そんなバタバタとした2か月が過ぎようとしていますが、8月24日の土曜日に、フォロワーさんのお誘いで江戸川の花火大会へ行ってきました。
東京の花火ってすごいですね……こっちで見る花火よりずっとずっと大きいし、種類もたくさんあるし、何より点滅花火なんて今あるんだーと感動しっぱなしで見ていました。
場所取りをしてくださっていたおかげで、座ってのんびり眺めることもできたし、唐揚げやポテト、焼きそば、サンドイッチ等々、食べつつ飲みつつ、とても楽しかったです。
そして何より、後ろの姉妹二人の最初から最後までの「たーまやー!!」の合唱が最高でした。
小声で言うのがやっとなくらいなのに、あんな元気に声を上げ続けられる二人は元気な子供だなぁと思いながらみんなで笑ってました。
我が家は、花火大会とは完全に無縁な家だったので、あんなに大きな花火大会へ行くのは初めてでした。
想像よりもたくさんの人がいて、想像よりもたくさん賑やかで、想像よりも何十倍も楽しかった。
何より私の話を聞いてくださったフォロワーさん、本当にお誘いくださったこともですが、ありがとうございました!!
これからの生きる糧にまた、していこうと思います。
※とても生々しい文章が続きます。
mixi用に書いたものですが、気分の悪い表現もあると思いますので、ご了承ください。
当時の状況をそのまま書きました。一部だけですが、私の本名を使っています。そちらもご了承ください。
父が自殺しました。首の頸動脈を深く切って、出血死でした。
私と父は28日~29日、江ノ島と成田山新勝寺へ圏央道一周の旅をしてきました。
私が夜に嘔吐してポカリを買ってきてほしいと言ったときも、父はすぐに買ってきてくれました。
部屋に入って置いてってくれて、父と「おやすみ」と言い合ったのも覚えています。
日付が変わって1時半少し前くらい、正確な時間はそのとき寝ぼけていたので覚えていません。
でも1時半くらいでした。それは覚えています。
本来なら寝ているはずの父の部屋に電気がついているのが確認できたので、私はいつも通り中の様子を確認しようと扉を開けました。
開けた目の前に父が立って、少し驚いた顔と声で「どうしたの?」と聞きました。
私も少しびっくりして「おトイレ……」とだけ答えたら、父は穏やかな表情で「そっか。もう少し寝ててね」って言って閉めました。
私は嘔吐の名残か、疲れてたのかすぐにまた眠れました。
その1時間後、ものすごく大きな音で目が覚めました。
何度も何度も、聞いたことがないような大きな音でスライドして開閉される雨戸の音。
聞き慣れた私の部屋のものでした。
最初は、祖母がまた体調悪くて熱望症起こしたか?と思い、父の部屋に行きました。
開けたら父がいませんでした。血の気が引いていくのがわかりました。
急いで電気をつけると、父が血まみれになって倒れているのが見えました。
ベランダに飛び出して確認したら、顔も服もベランダも血の海になって、そこに沈んでる父がいました。
「救急車!!!!!!」
叫びながら家の中に引き返して、おろおろしてる祖母に再度「救急車に連絡して!!!」と叫びながら私もスマホを取って119へ連絡しました。
1回目の通報で最初、私は父が血を吐いていると思いました。
救急隊員さんの指示を聞きながら父に呼びかけ続けました。
父は「苦しい……苦しいよ……」と「うるさい……」を繰り返しました。
1回目の通話の後で私は父の血を拭おうとしました。
父は「触るなっ」と跳ね除けて、苦しいと床を転がりました。
そこで私は、父の首に大きな裂傷があることに気づきました。
そして倒れた父の横に、父のスマホが落ちていました。
すぐにまたかけました。
ただうまく伝えられず「今向かってますから呼び続けてください」と言われたので、ひたすら父に呼びかけ続けました。
手を握って、ひたすら呼び続けました。
そしたら父が、とても苦しげに、ただ一言
「紋花、大好きだよ」
そう、はっきりと言いました。
私も「大好きだよ!!まだ眠っちゃだめだよ!!」と叫びましたが、父の呼吸は途端に弱くて、苦しそうで、何度も何度も呼びかけました。
救急隊員の方がきたのはそのタイミングでした。
すぐに心臓マッサージとAEDが使われました。
私はその後ろで何度も何度も呼びかけた。
救急隊の人から説明受けながら、父の保険証とか探さなきゃって父の部屋に飛び込んだ。
お布団は敷いたまま、寝た形跡はなし。
いつも置いてあるものを探したけど見つからなくて、代わりにテーブルの上に置かれた封筒を見つけた。
1通は私、もう1通は叔母宛。
思わず自分宛を掴んで、診察券とか、諸々入ってるもの掴んだ。
救急車には私が乗った。
体中震えて震えてしょうがなかったけど、父に何度も呼びかけた。
病院着いてすぐ父は繋がれて、1時間以上心臓マッサージを救急隊員の方が続けてくれた。
一度も戻らなかった。
先生から「これ以上続けると戻ったとして、肋骨は何本も折れてて、胸も凹んで、肺も苦しくなって、吐血しやすくなってしまう」と伝えられた。
諦めてほしいということだった。
だから最期に、父の顔を見て、手を握って、「もうやめてください」って、私が言った。言うしかなかった。
脈ももう戻ってなかった。
いつも何かと握ってくれた手は、もう冷たくて、父の温もりは残っていなかった。
心臓もとっくに動いていなかった。
瞳孔も動かない。
6月30日午前4時2分、父の死亡確認。
父は、還暦を迎えた60歳で、自ら人生に幕を閉ざした。
しばらく祖母と待合室で座ってたら、警察の方が来た。
4人。
各々私と祖母に色々質問したり、状況説明を求めたり、昨日一昨日の行動確認、食べたもの、繰り返し繰り返し聞かれました。
父の行動を細かく知っていたのは私なので、私が伝えました。
その際に、先に読んでしまった遺書を警察の人に渡しました。
後で返しますと、とても丁寧に扱ってくれました。
そこからまた30分くらい待機。
私のスマホで叔母に連絡しました。
旅行中だったらしく、すぐに駆けつけるのは難しいことと2時間以上かかると言われました。
そのうちに、警察の方が準備ができて、一度警察署へ行きました。
だいぶ待ってから、聴取を受けて、再び警官の方達と、現場検証のために自宅へ帰宅。
玄関先からベランダまで、血の痕が点々とこびり付いていました。
私は色々説明をしながら警官の方達の邪魔にならないよう自室に。
呼ばれるたびに行って、父の部屋のものなどを説明しました。
そこでわかったことは、大切にしていた財布の中身は空になっていて、カードも切り刻まれていたこと。
パソコンの座椅子の前に包丁のパッケージが落ちていたこと、父を発見時には暗くて見えなかったけれど包丁が落ちていました。
また今後のためのファイルを事細かに解約するためのカードなども一緒にした、父の大好きなリーバイスのトートバッグに入っていて、そこにはこれをこうしてほしい、これはこうというメモ書きが書かれてありました。
ファイル1枚1枚に丁寧に入っていました。
叔母宛の遺書にはだいぶ細かく書かれていたようで、だいぶ前から準備をしていたということがわかりました。
私は父の部屋に頻繁に入ってはゴロゴロしていましたが、そんな準備をしている素振りはあまり見られなかった。
「ファイルの整理しなきゃなぁ」とぼやいたり、昨夜は寝てもいい時間にプリンター立ち上げていたりと、前兆は多々あったとそこで思い当たりました。
旅行中もずっとずっと違和感を父に感じていたのに。
私にはたくさん食べさせながらほとんど食べないで、私が食べてる様子を見ている父。
店内をのんびり眺めている父。
違和感しなかった。
でもそれを言葉にすることがとても怖くて、言葉にできなかった。
言葉にすればよかったと思ったけれど、遅かった。
警官の方は優しく穏やかに、「還暦や節目の歳を迎えてガクッと落ち込む人は多くいる。それは誰のせいでもないし、誰かが止めることもできなかったから自分を責めないでください」と言ってくれた。
鑑識が終わって、事件性がないことが確認できたと言うことで、警官の方達は引き上げていった。
私も祖母も疲れたので、祖母は自室で休憩。
私はしばらくリビングでぼーっとしながら、父が遺したファイルの中身を見た。
保険のこと、支払いのこと、色々。
本当に細かく書かれていて、私が困らないように、叔母に動いてもらうために書いてあった。
でも私が見ても正直理解できないものも多かったから、私はファイルを部屋に置いて、ベランダを見た。
家の中の血はあらかた祖母が拭いたけど、ベランダは手付かず。
叔母に聞いたらできるならしていいよということだったので、掃除をすることにした。
長靴履いて、モップを持って、バケツに水汲んで、ひたすら擦った。
そのまま流すと詰まるからと、祖母に袋をもらったので、私が父の首に押し当てたタオルも2枚、そのまま捨てた。
血の量が多くて、塊も多くて、何なら皮膚みたいなものも血の混ざった水と一緒に流れたので、それはもう素手で掴んで捨てた。
血の塊なんて、私には見慣れたものだったから、ただひたすら掴んでは捨てて、流して、擦った。
途中で裏のおばさんがベランダから心配してくれて話しかけてくれた。
「あやちゃん、どうしたの?大丈夫だった?」
「
♀🤫」
祖母が近くにいたので、声が聞こえないよう、「だめでした、内緒にしてください」とジェスチャーをした。
伝わってくれた。
そのまままたひたすら擦って、擦って、擦り続けた。
途中で父が使った包丁も拾って洗った。
時々涙が出たけど、ひたすら擦った。
終わりにしようとしたときに、叔母といとこがきた。
祖母は2階の血を拭いていたらしく、私も中に戻ると叔母が上がってきて、祖母を抱きしめた。
私はその間に、壁についた血を見つけたので拭いた。
叔母もいとこも「ゆっくりしていいんだよ」と言ってくれたけど、「体動かしてないと落ち着かなくて……」って言ったところで涙が出た。
叔母は私も抱きしめてくれた。
「びっくりしたよね」って、優しい声で抱きしめてくれた。
父が遺してくれたファイルの入ったトートバッグをリビングに持って行って、色々叔母といとこが確認しながら、いとこがとても冷静に物事の順序を立ててくれた。
ファイルに入っている父の置き手紙、何枚かに「◯◯、ごめんネ!」とか、叔母へのメッセージが入ってた。
叔母がめちゃめちゃ怒って「全部私任せにすんな!任せるなら死ぬんじゃないよ!」と怒りながら書類見てた。
父の遺言として「お通夜とお葬式はやらないで、火葬してほしい」とあった。
あんな死に方でも、最後は送ってあげたい気持ちはあったけど、父の遺言だから、父の遺志だから、そうすることにみんなで決めた。
※現在は8/4の納骨を静かに待って過ごしている状態です。
後からダメージがやってくるタイプなので、現在私の心は非常に不安定となっています。
コメントの際にはあまり強い言葉は使わないでいただけますと幸いです。
不安になる。
どうしようもなくイライラする。
頭の中がかき回されるような感覚が続く。
周りが全て敵に見える。
ほんの些細なことさえ馬鹿にされているように感じる。
普段ならなんてことない一言も、琴線に触れたようにイライラする。
耐えなきゃ。
耐えなきゃ。
感情に任せて言葉を吐き出しちゃいけない。
私は感情を表に出しちゃいけない。
表に出したら最後。
誰もいなくなる。
耐えなきゃ。
堪えなきゃ。
心の内側に溢れ出す言葉は表に出しちゃいけない。
あぁでも。
死にたいなぁ。って気持ちだけは、零れていくなぁ……。
新年から5日も終わろうとしていますが、
あけましておめでとうございます。
昨年は1年を通して本当に病んだ一年となりましたが、楽しいこともたくさんあった1年でした。
年末はクリスマスにあしあとのコースターを目当てにクラスタさんとカラオケからの忘年会みたいな形であしあとで食事をしてました。
あとはひたすら寝たりゲームをしたり、フォロワーさん達と遊んだり。
30日は冬コミへ行っていました。
初めてはるかさんのサインをシモツキンにもらって嬉しかった。
「書きやすい名前ある?」って言われたの、今でも面白くて覚えてる。
友達とコミケを後にして、新橋でご飯食べてお茶をした。
椿屋珈琲店に初めて入ったけど制服がとても可愛かった。
31日は原神会で年越し。
幸先のいいガチャだった。
のんびりゆったりとしたお正月を過ごしているので、今年はいい年になりそう。
今年こそ、穏やかに過ごせますように。