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makoto's murmure ~ 小さな囁き~

日々起きる出来事や、活動記録、作品更新の情報などを発信していきます

実家に帰り、私はパパとママに謝った。
心配をかけたことは事実だし、あまりにも短慮で、わがままな行動だったと自覚もある。
一緒に帰った高山さんも間に入ってくれて何度も何度もパパと話し合いをした。
『これからは勝手にいなくなるようなことはしない』『高村さんと真剣にお付き合いをしていく』だから、一人暮らしをさせて欲しいとお願いした。

「一人暮らしがしたいなら、大学の近くにマンションを借りてやる。そもそも大学はどうするつもりなんだ」

ただAQUAに戻りたいと言ったところで、パパは容易には認めてくれない。

「大学には休学届けが出してあるようですし、僕は大卒であろうと高卒であろうと気にはしません」
「しかし」
「お父さん、僕を信じて青葉さんの好きなようにさせていただくことは出来ませんか?」
「そんなことを言うが、大学を休んでまでそこに暮らす意味がどこにあるのかね」

パパにはどうしても理解できないらしい。

「僕なりに調べましたが、青葉さんの回りにいるのは皆さん良い方ばかりで、彼女にとってもいい成長になると、僕は思います」
「しかし」

ずっとこんな会話の繰り返し。
高村さんは何度も説得してくれたけれど、週明け出張に行くまでにパパに『うん』と言わせることは出来なかった。

「じゃあ行ってくるよ」
「気をつけて」

1ヶ月の長期出張に向かう高村さんに『後は自分で説得します』と約束して、空港へ向かう彼を見送った。

「奏さんどうかしました?」
「・・・」
返事が返ってこない。

見ると、さっき渡された封筒を手に持っていて、その手がなぜか震えている。

「奏さん、大丈夫ですか?」
「・・・」
ボーッと前を見つめ、まるで聞こえてないみたい。

「奏っ」
マスターが声をかけるけれど、反応は同じ。

どうしたんだろうと思って見ていると、マスターが奏さんの手から封筒を取り上げた。
これって、さっきの女の人が投函し忘れたから出して欲しいって置いていったんだよね。

「これは・・・」
封筒の中を覗くマスターの顔が険しくなった。
そして「ちょっと電話をしてくるから」と一旦厨房に下がった後、5分ほどで戻ってきた。
その間も、奏さんは放心状態のままだった。


「奏、しっかりしろ。お前昨日は寝てないんだろ、今すぐに帰って寝ろ。店は俺が開けておいてやるから」
「でも、マスター」
「良いから言うことを聞け」
有無を言わせない迫力があった。

「ごめんなさい。帰ります」
奏さんは出て行った。

一体何があったのかと気になったけれど、聞ける雰囲気でもない。
私も高村さんも黙ってマスターを見ていることしか出来なかった。

***

それから10分後。
カランカラン。
駆け込んできた松本先生。

「あの、奏は?」
息を切らしながら、カウンター越しに声をかける。

ポンッと、マスターの手から投げられた封筒。
カウンターに落ちた瞬間、中身が飛び出した。
え、離婚届?
それも、もう記載済で、はんこも押してある。
それに、記載されているのは松本先生の名前。
じゃあ、さっきの女の人は・・・

「賢吾くん。何で奏にこんなものを渡すんだよ」
いつもは松本先生って呼ぶマスターが、賢吾くんと呼び、敬語もなく詰め寄っている。

「これは、」
何か言いたそうな松本先生だけれど、なかなか言葉が見つからない様子。

「俺だって、君達の件に関して奏が部外者だって言うつもりはない。あいつも当事者の1人だ。でも、これは違うだろう」
「マスター、」
苦しそうな顔で松本先生が何か言おうとするけれど、
「俺は奏のことを妹のように思っているんだ。これ以上奏を傷つけるようなら、俺は賢吾くん、あんたを認めないよ」
「すみません」
「その言葉は奏に言ってくれ。その前に、奥さんときちんと話をしろ。それまではこの店にも来てくれるな」
初めて見た本気で怒ったマスター。
唇を開いては閉じるを繰り返し何か言いたそうにしていた松本先生も、結局は何も言わずに帰って行った。


「青葉ちゃん、恥ずかしいところを見られちゃったね」
「いえ」
やっぱりマスターって、怒ると怖いのね。

「今日はお昼が終わったら帰るんだったね」
「はい」
必ずここに戻ってくるつもりだけれど、けじめとして実家に帰る。

***

ランチが終わった後一旦アパートに帰り、私はもう一度AQUAにやって来た。

「荷物はこれだけ?」
小さなスーツケースを1つ持ってきた私に、高村さんは呆れたような顔をした。

「一応実家に帰るんだから、もう少し荷物があると思ったんだけれど」
「だって」
何日か後には戻ってくるつもりだし、元々着の身着のままで来たわけだし。

「あのね、人生なんていつ何が起きるかわからないんだよ。僕だって、君がここに戻れるように口添えするつもりではいるけれど、それも絶対ではないよ。もしかして、2度と戻って来られないかもしれない」
「ええー」
「だから、もしかしてだって。そういうことも考慮しながら、身辺の整理をしておいて欲しいから、2日間待ったつもりなんだけれどな」
ハァーと息を吐き、肩を落として見せた高村さん。

「でも」
私は唇を尖らせた。
「でも、何?」
「荷物を片づけたら、2度とここには戻って来られなくなる気がして、」

これは、もう一度ここに戻ってくるぞって、私の決意表明。
子供じみた行動で、高村さんには理解してもらえないだろうけれど。

ククク。
高村さんの笑い声。

ん?

「さすが、お見合いがイヤで家出してしまうようなお嬢さんは、考えることが違うね」
ニコニコしながらも、チクリと嫌みを混ぜてくる。

「もー、それずっと言う気ですか?」
「もちろん。子供が出来れば、君のママはねって言って聞かせるよ」
「やめて」
冗談じゃない。
って、待って。子供が出来ればって・・・

「僕はそういうつもりでいるから」
「・・・」
返事が出来なかった。


「じゃあね、青葉ちゃん気をつけて」
「はい」
マスターとママさんと大地くんに挨拶をして、私はAQUAを後にした。

「いらっしゃいませ」
入ってきたのはビジネスマン風の若い男性。

ぱっと見ただけでわかる仕立ての良いスーツ。
めがねも細いシルバーフレームで、靴だって高級ブランド。
見るからに、できるビジネスマンだ。

「こんにちは」
マスターに向かって頭を下げる男性。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
「じゃあ」
男性は、奏さんとは反対端のカウンター席に座った。

「ブレンドをいただけますか?」
「はい」

ん?
この声。
どこかで聞いたような。

「青葉さん、準備は整いましたか?」
「え?」
えええ。

「何て顔をしているんですか?」
「だって・・・」

あまりにも違いすぎるから。
一昨日会った高村さんとは、別人にしか見えない。

「約束ですからね、帰っていただきますよ」
「・・・」

「お返事は?」
「・・・はい」

何か、悔しい。
家に帰らなくちゃいけないのは分かっているし、また逃出すつもりはないけれど、素直になれない。

「ところで青葉さん、あなたは実家に帰ってからどうするつもりですか?」
どうするって、
「また大学に通って、両親の決めた人とお見合いをするんだと思いますが」
「それでいいんですか?」

はああ?
何を言っているんだろうこの人。

「逃出した私を連れ戻しにいらしたのは、高村さんですよね」
「ええ、まあ、そうなんですが」
困ったなあと顎に手を当て考え込んだ高村さん。

「あなたは自分のお見合い相手について確認しましたか?」
「いえ。それは・・・」

勝手に決められたことに腹が立って、写真すら見ていない。

「そういう後先考えない所は感心しません。直してください」
「はあ?」
「それと、もうしばらくここにいたいと思っているようですが」
「はい」
出来ることならそうしたい。

「あなたの返答次第では、お父様に口添えをしてあげても良いですよ」
「本当ですか?」
「ええ」

でも待って、パパが高村さんの言うことを聞くとは思えない。
世の中の事柄をすべて損か得かでしか考えられないような人なのに。
返って高村さんがひどい目に遭う気さえする。

「僕の言うことが信用出来ませんか?」
「ええ」

***

「困りましたねえ。じゃあこれでどうですか?」

目の前に出された1枚の名刺。
名刺なら一昨日もらったのに。そう思って目を落とすと株式会社TAKAMURA専務取締役。
はあ?
TAKAMURAって、全国的に名の知れた総合商社。
現高村社長とはパパも懇意にしていて、私も小さい頃からかわいがってもらった。

「あなた、高村のおじさまの」
「息子です」

嘘。
子供がいるなんて一度も聞いたことがなかった。

「息子とは言っても外に出来た子で、一緒に暮らしていたわけではないので、ご存じないのかもしれませんね」
「へえー」
外に出来た息子。どこかで聞いたような話。

「それで?」
高村のおじさまの息子が、なぜ私を探しに来るの?

「ここまで言ってもわかりませんか?」
「ええ」
「青葉さんはあまり頭が良くないんですかね」

はあ?
思わず睨み付けた。

「あなたのお見合い相手は、この僕です」

「え?」
この人が、私のお見合い相手。
もっと言えば、私の未来の旦那様。

「どうですか、また逃出したくなりましたか?」
「いえ」

不思議だな。逃出そうって気にはならない。
高村さんのこと、好きなわけではないし、意地悪だなって思うし、時々怖いとも思うけれど、一緒にいることを不快には感じない。
思ったことをズケズケと言えそうな相手。
さっき奏さんと話していた女性の言う『好きすぎて本音が言えずに、表面を取り繕いすぎて仮面夫婦になってしまった』ってことはなさそうな気がする。

「僕との将来を考えてみる気になりましたか?」
「それは・・・」
無いかな。

「青葉さん、僕もあなたもまだお互いのことを知らないわけですが、1つだけお約束します。僕は生涯妻以外の人を好きにはなりません」

聞いた瞬間に目の前の景色が揺れた。
ヤダ、泣きそう。
泣きたくなんかないのに。

「僕を信じていただけますか?」

口を開けば涙が溢れそうで、コクンと頷いた。

「じゃあ今夜、一旦自宅に帰りましょう。一緒にお父様を説得して差し上げます。そうすればまたここに戻ってこられます。僕も来週からは忙しくて、1ヶ月の予定でヨーロッパ出張ですので、ここでおとなしく待っていてください」

やったー。またここにいられる。
今度は隠れることもなく堂々と。
それも、高村さんが1ヶ月の長期出張ってことはその間はどこにでも行ける。
いざとなれば逃出すことだって、

ペシッ。
「痛っ」
急にデコピンが飛んできた。

「また、よからぬことを考えている」
ギロッと睨み付ける高村さん。

もー、何でわかるのよ。

「青葉さんがわかりやすく顔に出しすぎなんです」
「はいはい、すみませんね」
どうせ私は単純です。

「青葉さん」

「はい、もうわかりましたから」

 

再び名前を呼ばれ、顔を上げた。


「そうじゃなくて」
私を通り越して、奏さんを見ている高村さん。

あれ?
奏さんの様子が、おかしい。

奏さんの受診が終わってAQUAに戻ってきたときには、10時を回っていた。

「ただいま」
「お帰り、遅かったね」

マスターがいつも通りの笑顔で迎えてくれる。
どうやら大地くんとママさんは厨房でランチの準備中らしい。

「どうだった?」
ムッとした顔で入ってきた奏さんに、マスターが聞いている。

「最悪です。すっごく怒られました」
「だろうな」
当然だろうって、マスターの反応。

「ひどいですよ。マスターが賢吾を呼んだんでしょ?」
ええ、そうなの?
「ああ。黙っていていい話だとは思わないからな」
「そんなあ・・・」
 

ブツブツ言いながら、奏さんはカウンター席に腰を下ろした。

「すみません、お待たせしました」

奏さんと話しながらコーヒーを入れていたマスターが、カウンターの端に座った女性客にコーヒーを差し出す。

「ありがとうございます」

いかにも奥様風で上品な女性は、初めて見るお客さん。

「騒々しくてすみません、良かったらこれどうぞ」
出されたのは小さなカップケーキ。

「え、私・・・」
頼んでいませんけれどと言いたそうなお客さん。

そりゃあそうよね。
いくら何でもカップケーキはおまけには見えない。

「サービスです。お嫌いでなかったら、どうぞ」
「でも・・・」

「本当にいいんです。遠慮なく召し上がってください。この店のマスターは道楽でやっているので」
「オイ、奏」

フフフ。
マスターと奏さんのやりとりを見ていた女性が笑い出した。

「本当にすみません」
頭を下げるマスター。

「いいんです。楽しいです」
笑い声を上げながら、女性は出されたカップケーキを受け取った。

それにしても綺麗な人だな。
雰囲気はうちのママに似ていて、見た目は40歳くらい。
でも綺麗すぎて、一見年齢不詳な感じ。

「ケガをしていらっしゃるんですか?」
奏さんの包帯に目をやった女性。
「え、はい。ちょっと」
「いけませんね」
「いえ、たいしたことはありません」
奏さんとお客さんはカウンター席に並んで話し始めた。

「お買い物ですか?」
「え?」
「デパートの袋をお持ちだったから」
女性の隣の席に置かれた紙袋を指さす奏さん。

「ええ。来月の連休に友人と旅行に行く予定で」
「へー、いいですねえ」
「はい、気に入ったらしばらく滞在しようかと思っているんです」

ふーん、素敵。
THEお金持ちの奥様って感じ。
でもなあ、私だってこのまま結婚すれば似たような生活が待っている。
実際ママもフラッとハワイに長期滞在とかしているものね。

「うらやましいです。私なんて生きるのに精一杯ですから」
「奏」
放し過ぎだとマスターに注意され
「すみません」
奏さんが謝っている。

「いいんですよ。いい身分だと私も思っています。でもね、私にはあなたのように自由に生きられる方がうらやましく見えるんですよ」
その声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。

***

「本当に、失礼なことを言ってすみません」
深々と頭を下げる奏さん。
「気にしないでください」
「でも」
「じゃあ、しばらくの間私の話し相手になっていただけませんか?」
「えっ」
「いいでしょ?」
「はあ、まあ」
奏さんには拒めるはずもなく、多少強引に女性は話し始めた。

「私ね、結婚しているんですよ」
「はあ」
相づちを打つ奏さん。

まあ年齢的に見ても、そうでしょうね。結婚指輪もしているし。

「主人、3歳年下なんだけれど、いい人なの。お見合い結婚で、私の一目惚れ。父にあの人でなければイヤだって駄々をこねてね」
「へー、すごいですね」

なんだかうちのママの話を聞いているみたい。

「でもね、ダメなの」
「え?」
奏さんが女性を振り返った。

「好きって気持ちが強すぎて、彼の前ではいつも綺麗にしていなくちゃとか、優しくていい人でいなくちゃとか、頑張りすぎたのね。結局、本音を言えない仮面夫婦になって」
「そんな、今からだってやり直せばいいじゃありませんか」
奏さんが女性の言葉を遮った。

「そうね、あなたなら出来るかもね」
その言葉が、とっても冷たく意地悪く聞こえた。

「すみません、生意気なことを言いました」
「いいの、あなたに話せて私もすっきりしたわ」
女性の顔には笑顔が戻っている。

「ああ、そうだ。一つお願い事をしてもいい?」
「はい」
「郵便を出そうと思っていたのだけれど、出しそびれてしまって。申し訳ないけれど、投函しておいていただけないかしら?」
「いいですよ」

女性はバックの中から、大きめの封筒をとりだした。

「この中に入っているから」
「はい」
奏さんが受け取り中を確認しようとして時
「恥ずかしいから、私の姿が見えなくなってから開けてね」
そう言われて手が止った。

「じゃあ、後で投函しておきます」
「お願いします」
女性はそのまま荷物を持つと、
「ごちそうさまでした」
レジを済ませて店を出て行った。


「何だか不思議な人でしたね」
「そうね」

言いながらも気になるのは奏さんの手元に残された封筒。

「中を確認してみてください」
「うん」

その時、
カランカラン。

お客さんがやって来た。

*****

 

腕の傷

 

*****

 

診察の順番を待つ救急外来。
平日の昼間だけあって患者さんは少なめ。
まあ、さっきから救急車の音はしていたから、診察室の中は混んでいるのかもしれないけれど。

「なかなか呼ばれませんね」
ついてきてくれた青葉ちゃんが心配そうな顔をしている。

「うん、大怪我でもないし、出血が続いているわけでもないし、優先順位は低そうだからね。緊急の患者さんが先なんでしょ」
 

私なんて一般外来へ回されてもおかしくないくらいだもの。

「松本先生いますかねえ?」
「え?」
「だって、松本先生に診てもらう方が安心じゃないですか」
「青葉ちゃん」

 

サラッと言ってくれるけれど、それは違うよ。
今ここに賢吾が出てきたら、私は逃出すから。
そんな怖いことを言わないで欲しい。
幸い、今日は遅めに出勤だって聞いたから、おそらく10時を回らないと病院には来ないはず。

だから、それまでに帰りたい。

ピンポーン。
「田島奏さん、6番診察室へお入りください」

あ、やっと呼ばれた。

トントン。

「失礼します」
 

呼ばれて入った救急外来の診察室。
白衣を着て座っていたのは見たことのない若い男性ドクター。

おそらく研修医だろう。

「えっと、右腕の切創ですね」
「はい」
「ケガをしたのはいつですか?」
「今日の明け方です」

「いつ?」
「えっと・・・4時頃です」

「何で切ったんですか?」

えっ、またこの質問?

さっきあれだけ言ったじゃない。
師長さんだって問診を入れているんだから、聞かなくたってわかるでしょうに。

「あのぉ」
なかなか答えない私の顔を、男性医師がのぞき込んできた。
 

「何度も言いますが、自分の不注意で切ったんです」
これ以上言うことはないと、強めの口調で言い切った。

「そうではなくて、刃物は何ですか?」
「はあ?」
「何で切ったのかを伺っています」
「・・・」

なんだか、とっても、だんだん腹が立ってきた。
治療費は全額自分で払うと言っているんだから、黙って縫ってくれればいいじゃない。それをいつまでもクドクドと、

「あの、田島さん?」
私が不機嫌になったのが分ったのか、オドオドと顔色を覗っている研修医。

「あの奏さん、先生が困ってらっしゃいますから、」
一緒に入っていた青葉ちゃんも困っている。

でもなあ、ストーカーが持っていた刃物だから詳しくはわからないなんて言えない。
どう説明したものかなあと頭を抱えたとき、

トントン。
診察室奧の扉からノックする音が聞こえた。

「はい」
研修医が振り返り、開いた扉から入ってきた白衣の男性。

「ゲッ」
思わず声が出た。
だって、

「松本先生」
青葉ちゃんのうれしそうな声。

ああー、終わった。
私はガックリと肩を落とした。

***

青葉ちゃんの反応で私達と賢吾が知り合いだと気づいた研修医が、椅子から立ち上がった。

「いいよ、先生続けて」
「しかし」
「いいから」

賢吾は研修医を止め、自分は扉にもたれかかりながらジッと私を見ている。

「えっと、刃物は何でしたか?」
「・・・忘れました」
んな訳あるかと自分でも突っ込みを入れたいけれど、他に答えようがなかった。

「忘れたって・・・」
研修医が呆れた顔をしている。
 

でもね、私だって困っているの。

「あの、消毒をして縫っていただければいいんですが、ダメですか?」

私はそんなに難しいことを言っているんだろうか?

「しかし・・・」
この研修医には私がクレーマーに見えているのよね、きっと。

「でしたらもういいです」
「は?」
何を言っているんですかと言いたそうに、口を開けたままの研修医の顔。
でも、私だって引けない。

「そんなに大きな傷でもありませんし、受診はキャンセルさせてください」
「いや、しかし、そんなことを言われても・・・」

はあ、もう。これじゃあらちがあかない。
後ろめたい気持ちがある分、私だって一刻も早くここから逃出したいのに。

***

「もういい。先生、変わるよ」

へ?
あんまり興奮していて、賢吾の存在を忘れていた。

「お願いします」
研修医が席を立ち、代わりに賢吾が目の前に座る。

「それで、夜中の4時に不注意から切ってしまったと?」
間違いないですかと私の顔を見る。
「利き腕をこんなに綺麗にって、随分器用ですね。それで、何をしてたのかは・・・言いたくないと?」

コクンと頷いた。

「何で切ったのかは・・・忘れたんでしたね」
 

カチカチとパソコンを叩きながら、嫌みな口調。
これって絶対にわざとだよね。意地悪だよね。

「それって、関係ありますか?」
「はあ?」
「だって、包丁で切ろうとナイフで切ろうと、カッターナイフであろうと、どうでもいいじゃないですか」
つい、つい言ってしまった。

さっきから何度も同じ質問をされいい加減頭にきていたし、目の前にいるのが賢吾だってことで甘えの気持ちもあったと思う。
でも、

「お前なあ」
その剣呑な声に驚いて、顔をあげた。

そこにいたのは、先ほどまでの患者さん相手の穏やかな顔ではなく、すこぶる機嫌が悪いときの賢吾。
ヤバイ、地雷を踏んだんだ。

「治療に必用だから聞くんだよ。刃物が汚染されているようなものなら破傷風の心配だってしないといけないし、ガラスみたいに細かな断片が傷口に入っている可能性があれば、傷口のレントゲンを撮って確認する必用も出てくる。だから、お前は聞かれたことに素直に答えろ」
「・・・ごめんなさい」
もう謝るしかない。

「松本先生?」
賢吾のお怒りモードが珍しかったようで、驚いた表情の研修医が声をかけた。

「いいんだ。こいつは、その・・・知り合いだから」

知り合い。
確かにそうだけれど。そうとしか言いようがないけれど。


その後、不機嫌全開の賢吾は傷口を見てはパソコンを叩き、時々PHSで指示を出していた。

「じゃあ、レントゲンと洗浄消毒、後は縫合に行って」
「はい」
「先にレントゲンを撮ってから、奧の処置室で縫合」
「はい」

「ああ、青葉ちゃん。処置室には一緒に入らなくていいからね」
「え?」
どうして?と目で訴えた。

「お前、青葉ちゃんの前で泣きたいの?」
はあ?それって、
「そんなに痛いの?」
つい身構えてしまう。

「当たり前だろ。ここまで生意気な態度をとったんだから、いまさら『優しくしてください』何て言わせない。せいぜい医者を怒らせたことを後悔するんだな」

そんなあ。

***

レントゲンを撮り、処置室に案内された私は小さな丸椅子に腰を下ろした。

「右腕はこちらにおいてくださいね」
「はい」
言われたとおり台の上に腕を乗せ、後は賢吾を待つだけ。

「緊張してますか?」
若い看護師に聞かれ、
「ええ」
素直に答えた。

だって、目の前にある自分の右腕はパックリと口を開けた傷口が見えて、とってもグロテスク。これを今から縫われるのかと思うと、やっぱり怖い。


「はい、お待たせしました」
白衣姿で入ってきた賢吾。
「お願いします」
看護師が賢吾の隣に立つ。

いよいよ縫われるんだ。『泣くぞ』なんて脅されたから、やっぱり怖いなあ。

「洗浄と消毒は1人で出来るから、いいよ」
「え?」
賢吾と私の顔を交互に見る看護師。

「縫合の時に呼ぶから、少し外してくれる?」
「はい」
賢吾の意図をくみ取ったようで、看護師は処置室を出て行った。

「さあ、始めるか」
ギュッと右手を掴まれた。

「まず洗浄だな」

昔よく学校の理科室にあったような容器の先にノズルがついた道具で、生ぬるい水が右手にかけられる。
うわ、気持ち悪。

「次は消毒だけれど、しみるぞ」
「えっ」
そう言った次の瞬間

「い、痛一つ」
あまりの痛さに、思いっきり右手を引いた。

「バカ、ジッとしてろ」

無理無理。すごく痛い。

「ほら、右手」
賢吾が手を差し出すけれど、
「無理」

もうすでに泣きそう。

「どんだけ嫌がっても消毒は必用だからな、押さえつけてでもやるぞ」
「でも、」
痛すぎる。我慢なんて出来るはずない。

「麻酔して欲しいか?」
すごくいたずらっぽい顔をした賢吾。

え、
ウンウン。
何度も頷いた。

「じゃあ、正直に話してもらおうか」

へ?

「お前昨日、あれからストーカーに会ったのか?」
「ええー、あー、うん」

もういい。
どうせ隠しても賢吾にはバレている。

「俺は行くなって言ったよな?」
「うん」
確かに言われた。

「勝手に動くんじゃない、明日警察に届けるから何もするなって念を押したはずだよな?」
「はい」
だんだんと自分が小さくなっていくような気がする。

「とりあえず、言い訳を聞こうか?」
私から体を離し、椅子の背もたれに寄りかかり腕を組む。

「えっと、いたずら電話の犯人がうちのお客さんだって分って正直ショックだったの。顔も名前も知っていて、普通のサラリーマンだと思っていた人だったし、信じられなかった。だから、直接本人に聞いてみたかったのよ」
「それで?」
「会って話せばわかってくれると思って」
「分かってくれたのか?」
「・・・いいえ」

はじめは私に呼び出されたことを喜んでいたけれど、そのうち逆上しだして、

「ストーカーにやられたんだよな?」
チラッと右腕を見る賢吾。

「うん。でも、もみ合ったの。わざとではないの」

「この期に及んでかばうのか?お前はどれだけ人がいいんだよ」
「ごめんなさい」

結局又、賢吾に心配をかけてしまった。

「ほら、右手」
賢吾の腕が伸びてきて、
「え、ヤダ。痛いから」
勝手に涙が出てきた。

「バカ、麻酔してやる」
「本当に?」
「ああ」

じゃあと右手を差し出すと、今度は麻酔をしてくれて、

「まだ痛いか?」
「大丈夫」
もう何も感じない。

「ごめんね、賢吾」
いっつも迷惑をかけてばっかりで。
「もういいよ。ただし、今回のケガも含めて警察に届けるからな。そこは譲らない。いいな?」
「はい」

どんなに頑張ったって、私は賢吾にかなわない。