小さい頃、テレビを見ながら文句を言う母に、
なんで全く知らない人のことを悪く言うんだろう?人のことなんてどうでも良くない?
と私はよく思っていました。それから、私は祖母と母や大人たちの話をじっと聞き、よく分析していました。
そんな私は母には可愛くないと嫌われていて、苛立たせていたようで、
また、そんな風に受け取って!
あんたには何にも言えないわ!
冷たい子!酷い子!
とよく言われていました。それでも私は、なぜ母が私の考え方に対してヒステリックに怒るのか?
とさえ感じていました。突然イライラし始める母のことがいつも謎で仕方ありませんでした。
友人は私よりずっと頭の良い人ばかりで、ほとんどが今医者をしているくらいで、私はいつも自分て頭悪いな…って思っていました。
働き始めると、私のなぜなぜ病は尚更エスカレートしました。
この人たちはいつも愚痴ばかり。人に仕事を押し付け、妙に偉そうだ。話が合わない。この人たちは物事の見方が変だ。
なぜだ?
と毎日、毎瞬思っていました。
職場では馬鹿にされ、相当量の仕事を押し付けられ、粗末に扱われました。
だから私は思いました。
自分が変なのだ。自分の能力がないから、みんな世界を雑に見ている気がするんだ。
なぜいつまで経っても自分は頭が悪いのだろうか?
自分に価値を感じられず、毎日苦しく、それでも、考えることをやめられず、私は正気ではなくなっていきました。
40代になり、鬱になり、なぜ人と話が噛み合わないのか、なぜ自分をここまで無価値に感じるのか。
気付く瞬間がやってきました。
そうか!視点が違うだけだ。ただそれだけなんだ。雑に見ている、というのは、目の前に起こっている物事を丁寧に見ようとせず、なんでもまとめて捉えいる時にそう感じるんだ、と。
例えば、
みかん、リンゴ、メロン
これら一つ一つを見ると、味も形も、採れる場所も全く違う。けれど、まとめて見ると、「果物」
果物だと知っている人は、果物として見れるけれど、果物という概念を知らない人は、みかんはみかん。リンゴはリンゴ。
だから、みかんはみかんだけど、果物でもある、さらに言えば、植物でもあるし、食べ物でもあるし。
色々な概念がくっついているわけで。だから、今この瞬間に「みかん」をどう見ているか、によって解釈は変わってくる。
そして、そこに個人の経験がくっついてくるわけだから。みかんが嫌いなら、美味しくない、とか、光毒性がある、とか悪い側面を見て解釈する人もいるわけで。
物事に対する認知が凝り固まっていればいるほど、互いにズレが生じてきて、ズレていることに気づこうとしないと衝突するわけで…
何かの人理解不能!とか、
この人は酷い人だ!
になるわけ。結局、人の認知って歪んでいるから。この人は「みかん」をどう見ているのだろうか?
と予想しようとすることって大切だな、と思うようになりました。
だからね、誰が悪いとかではないし、もちろん自分が悪いわけでは絶対にない。
そこに哲学的な視座が加わると、自分が今どんな風に考えているかも見えてくる。
またそれは今度書きます。
結局何が言いたいのか?
人を理解できないからって苦しまなくて良いってこと。家族も含め、人のことなんて分かるわけないのだから。
自分はどう捉えているのか、それを考えると生きていくのがただただ、楽になる。ま、そんな余裕ない時だってあるし、どんな自分も自分がまず理解する、オッケーにする、そうしないと他人の事なんて見えてこないな、と思う。