今月、「母の日」に届くように熊本の母へ書いた手紙

 
昨日、母に電話すると「ちょうどあんたからの手紙を読みよったったい」と言う。
 
(え?母の日には「手紙ありがとう」って言ってたのに?)
 
 
 
 
 
 
 
「お母さん1枚目だけしかなかて思っとったとよ。2枚目があるて気づいとらんだった。最近お母さんはちょっとどぎゃんかしとるねぇ」と母は笑った。
 
最後は、年老いた母の自嘲と心細さが込められていたように感じたのは私の気のせい?それとも慣れ親しんだ罪悪感かしら…。まぁどちらでもよい。
 
 
 
 
 
「じゃあ読んで感動の涙を流してね」と私が言うと
 
「なーん、そぎゃん泣きはせんばってん」と母は再び笑って答えた。
 
 
 
 
 
 
約1週間、手紙の2枚目に気づかなかったことを「天然さ」と形容するならば、かつてそれは好意的で微笑ましいものではなく、侮蔑が含まれた嫌悪の対象だった。
 
大好きな人に伝わらないもどかしさが無力感に、無力感が悲しみに、悲しみが怒りや嫌悪に変化していったその昔。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しかし今は。
 
 
 
 
 
 
 
 
そんな母が愛らしい。
 
 
 
 
 
母によく似た天然の自分もいとおしい。
 
 
人は時に誰かを意図せずイラつかせ、勝手に嫌悪されることもあり
 
それでも同時に確実に
 
誰かに愛され、いとおしまれている
 
 
 
母も私もそんな存在
 

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