2010年1月26日夕方

 
確か弟のお嫁さんからの電話かメールだったと思う。
なぜかな、はっきり覚えてない。
 
 
 
「お父さんが交通事故に遭われました。」
 
 
 
 
その日の夕方、父は何をしていたのだろう?
愛車のカブ号で出かけてたらしい。
 
大型トラックとの正面衝突でほぼ即死だったとあとから聞いた。
 
 
永年勤めた新聞販売店を退職してからも「ぜひ手伝いに来てほしい」と乞われ、70歳過ぎても非常勤として働き続けた。
 
最初は理容師をして店を構えるほどだったけれど、その店をたたんで新聞販売店に勤めた。
 
家では寡黙な父だったから「増紙貢献」(新聞の購読を増やすこと)で会社から表彰を受ける度に不思議だった。
 
お葬式のときに会社の人が父のことを「普段は無口で優しいけれど、仕事となると鬼の○○(父の名字)だった」と言ってるのを聞いた。
私の知らない父の一面だった。
 
 
私と弟が小さい頃、母が仕事に出かけて居ないとき、父がお菓子を作ってくれるのが楽しみだった。
 
お菓子と言っても、小麦粉に卵を割り入れて、水で溶かすだけ。
それでも私は父が作ってくれるそのお菓子を3人で食べるのが好きだった。
父がお菓子を作ってくれるのを横に立ってじっと見てた。
 
 
 
私が離婚すると言い出したときには、言葉を絞り出すように離婚を思いとどまってほしいと言う父を見て胸が傷んだ。
 
でも私は離婚した。
自分勝手だと自分を責めた。
 
 
事故の知らせを聞いたとき、とっさに喪服の用意をしておこうと思った。
もしものことがある。
 
家に帰り、荷物をまとめて高速に乗った。
車を運転しながら涙が出た。
 
いや、もしかしたら涙なんて出なかったかもしれない。
 
 
病院が近づくと、ふっと「私がしっかりしなきゃ」と夢から覚めたように冷静になった私がいた。
 
 
父の搬送先の病院に着き、案内されたのは死体安置室だったと思う。
 
母は半狂乱になって父の死体にしがみついている。
 
「お父さん!お父さん!」
 
父は黙ったまま。
 
 
泣くばかりの母。
 
弟と私でお葬式などの手配をした。
 
 
葬儀の前後、葬儀の前後最中、私はなぜか思い切り泣けなかった。
笑顔で受け答えることさえできた。
 
「私がしっかりしなきゃ」
 
 
 
 
亡くなる1、2年くらいかな、父と母を車に乗せてよくドライブに行った。
父が亡くなるのを予感していたかのように。
 
これらの旅がせめてもの救いになってる。
 
 
愛されていた、と思う。
 
 
 
 
 
だけど、まだ死んでほしくなかった。
あんなに急にいなくなってほしくなかった。
まだ一緒に色んな所へ行きたかった。
行かなくてもいい、ただ居てくれさえすればいい。
まだまだたくさん話したかった。
 
お父さんが死ぬなんて全然考えてもなかった。
 
伝えたいことまだたくさんあったのに。
 
 
 
 
 
 
 
お父さん、私は「育ててくれてありがとう」ってお父さんが生きててくれるうちに言いましたっけ?
 
 
お父さん、私は1度でもお父さんに「お父さん、大好き」と言ったことがありましたか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日のオープンカウンセリングでよよこさんと話をしていて父のことをふと思い出しました。
 
そして8年前のあの日封印していたかのように流せなかった涙が流れたのでした。
 
 
 
 
今日、母を買い物に連れていったとき、「明後日はお父さんの月命日だけん、お菓子買っとかなん」と言いながら、母は父が好きだった和菓子を選んでいました。
 
 
父が生きている頃には言えなかった言葉。
明後日は位牌に向かって言ってみようと思います。
 
涙が流れてきてももう止めないと決めています。
 
 
 
よよこさん、今日は大切な気づきをありがとうございました。