こんばんは❤️麻希ちゃん大好き❤️憧れの人❤️hiroです❤️
只今放送中です❤️耳をすませば❤️

ニヒリズムの超克と現代世界の肯定 本作品は、少女漫画の純粋な「恋愛劇」の形を借りて、現代日本に生きる中学生の生きざまを、実に堂々と積極的に肯定している。若者が現世を誠実に生きること、恋することを全力で肯定出来る健やかさを見せることこそ、この作品を貫くテーマであろう。 折しも、バブル崩壊に追い打ちをかけた阪神・淡路大震災による都市の壊滅、オウム真理教関連事件による全社会的動揺、長期不況による失業と雇用不安の拡大等、実にすさんだ社会情勢である。将来の社会を担う若者を育成するはずの中学・高校では、集団のいじめによる生徒の自殺、教師の暴力的体罰による虐待、果ては生徒同士や教師による殺人などが連日各地で報道されている。 ともすれば、「人間を豊かにする」はずの社会や政治や教育や宗教への不信感が募り、まともな人間関係すらも作れず、ひたすらコンビニエンスストアとファミコンゲーム、ウォークマンに代表されるような自閉的文化に足をからめ取られてしまう。そして、思春期にして既に「何をやってもダメだ」という暗い展望を抱えざるを得ず、人間不信・社会不信の冷めたニヒリズムが蔓延してしまう。 宮崎氏は、そんな時代に、どうしてもニヒリズムや個人主義とは無縁の価値観、つまり若者を臆面もなく励ますための「健やかな作品」を提示したかったのであろう。そして、その制作動機は、宮崎氏自身の長い葛藤の結果生まれたものでもあるはずだ。 「耳をすませば」制作に至った経緯は、宮崎氏のライフワークと呼ばれた漫画版「風の谷のナウシカ」に良く示されている。同作品後半のテーマは、「ニヒリズムの超克」と「人間社会への深い信頼(楽観とも言える)」であったと言える。「米ソ冷戦崩壊と東欧ソ連圏での民族紛争勃発」という世界情勢に対する宮崎氏自身の精神的ショックを反映して、政治的・社会的・イデオロギー的な解決が提示できずに混沌とした展開を見せた物語は、ともかく人間の業も情けなさも限界も全てを引き受けて、主人公ナウシカが「生きていく」ことを決意して終わっている。「生きる」ことの素晴らしさの再確認と楽観主義、そして人間同士の信頼。政治不安・社会不安、そしてイデオロギー崩壊を乗り越える術として、宮崎氏はそうした自己の原点的な境地に至ったのではないか。それは、何ら新しい内容ではなく、一種の「開き直り」と言ってもいい。 前作「紅の豚」の主人公ポルコ・ロッソは、宮崎氏自身を投影した中年キャラクターであり、反社会的ではありながら自己中心的で、過去に支配されて「誰も幸せに出来ない」という歪んだニヒリズムに支配されていた。宮崎氏は、この作品について「本来アニメーションは子供のためのもので、自分のために作ってはいけないのに作ってしまった。」「新しい表現とは無縁のモラトリアム映画だ。」と自嘲的に語っていた。 この作品は、ハードに自分自身のニヒリズムと格闘していた漫画版「ナウシカ」の反動として、モデル雑誌に描かれた小篇漫画が原作であり、映画もその延長線上にあった。原作は、単なる娯楽活劇の要素が濃かったが、映画版は制作が進むに連れ、自らが抱える心情の吐露に踏み込んだものとなっていった。自らのニヒリズムへの決着が不明確であったため、ラストシーンに七転八倒した末、必然的に曖昧なままとなったのだ。しかし、このような作品が、子供たちに明るい将来への希望や、人間関係の素晴らしさを与えられる作品でないことは確かであり、その意味で宮崎氏にとっては、胸を張れる作品ではなかったはずだ。 「紅の豚」公開時の各インタビュー・舞台挨拶などで、上記のような制作動機をバツが悪そうに語った宮崎氏は、必ず最後に「次は必ず子供たちのための作品を作ります。」と自らに言訳するかのように加えていた。「子供たちのための映画」。それは宮崎氏にとっては、ニヒリズムの片鱗も存在しない生きる喜びや世界の素晴らしさに溢れた純粋な作品だ。たとえば「パンダコパンダ」や「となりのトトロ」のように。 余談ではあるが、本作では、ドアーフたちが働く「からくり時計」の下りで、実らない悲恋物語が語られる。このエピソードは原作を離れた宮崎氏の創作だが、この時計のプレートには、何故か「ポルコ・ロッソ」と描かれている。このエピソードは地球屋主人の西司朗とバロンに共通の悲恋物語と重なる部分もあるが、あるいは西がポルコ・ロッソを継承・発展させた「若者を見守る」役割を与えられたキャラクターと言えるのかも知れない。単なるスタッフの「ご愛敬」とも受け取れるが、勝手なオマージュ分析の一つもしてみたくなる。


麻希ちゃん大好き❤️憧れの人❤️hiroでした❤️