こんばんは❤️麻希ちゃん大好き❤️憧れの人❤️hiroです❤️
2020年も長崎の鐘が鳴ります。8月9日午前11時2分に黙祷。

こんな日は映画を観よう戻る長崎の鐘_1 (1950) 日本2015/06/20 03:33 [1110]原爆が描かれた初の日本映画、藤山一郎の名唱を聞け原爆が描かれた初の日本映画である。原作は長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の医学博士・永井隆の随筆「長崎の鐘」。脚本は新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子の三人。監督は大庭秀雄。出演は若原雅夫、月丘夢路、津島恵子、滝沢修、薄田研二ほか。映画化に至るまでちょっとした経緯があった。永井隆の随筆は1946年(昭和21年)8月には書き上げられていた。が、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲ですぐには出版の許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集「マニラの悲劇」との合本とすることを条件に、1949年(昭和24年)1月、日比谷出版社から出版された。酷い事をしたのはアメリカだけじゃない、日本だってこんな大虐殺をやったんだとGHQは免罪符にしようとした訳だよね。同書は紙不足の当時としては空前のベストセラーとなり、同年7月、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲、歌・藤山一郎で同書をモチーフにした歌謡曲「長崎の鐘」が発売され、これも空前の大ヒット。で、翌1950年(昭和25年)に松竹が映画化したのである。但し、やはりGHQによる検閲のため、原爆及び被爆状況等を正面から描く事はできず、永井隆の生涯を描いた伝記作品という形で製作されたのだ。♪こよなく晴れた 青空を悲しと思う せつなさようねりの波の 人の世にはかなく生きる 野の花よなぐさめ はげまし 長崎のあゝ 長崎の鐘が鳴る♪召されて妻は 天国へ別れて一人 旅立ちぬかたみに残る ロザリオの鎖に白き 我が涙なぐさめ はげまし 長崎のあゝ 長崎の鐘が鳴る藤山一郎の歌うその「長崎の鐘」。子供の頃、私らもよく歌ってたなあ。藤山一郎の声はいま聴いても本当に痺れる(^^♪ちなみに私が初めて観たのは学校の講堂。小学生時代、もちろん巡回映画。本を読んだのは映画を観た後、中学生になってからだった。永井隆、1908年(明治41)2月3日-1951年(昭和26)5月1日。生まれは鳥取県松江市で、父親は医師。生後すぐに現・雲南市に引っ越し、松江高校に入学、そして1928年(昭和3)に長崎医科大学(現・長崎大学医学部)へ。4年後の32年(昭和7)に卒業するのだが、映画はそこから始まる。1932年(昭和7年)5月、大学卒業式の2日前、永井(若原雅夫)はクラス会に出席した。が、雨に濡れて下宿先へ帰宅したため急性中耳炎を患い、入院。命を落とすか障害者になるかの重症だった。2ケ月後、ようやく健康を取り戻したものの、右耳が不自由に。当初内科を希望していたのだが、この耳では無理だと担当医師の勧めで物理的療法科(レントゲン科)の道へ進み、朝倉教授(滝沢修)の下で放射線物理療法の研究に取り組み始めた。画像が超悪いのは私のせいではない。YouTubeのせいだ。YouTubeさん、ありがとね(^^♪当時、放射線医学は医学界では軽んじられ、聴診器に頼る古くからの医師たちに迫害を受けていたが、研究を重ねるうちに将来を左右するほどの分野だとわかり、研究に打ち込んだ。そんな永井を支える二人の女性がいた。一人は看護婦の山田幸子である。彼女は内科担当を希望していたが、永井が生涯を放射線医学に捧げる決意だと知ると、永井の下に残ることにした。美しき幸子を演じているのは我等が津島恵子さんだよ(^^♪そしてもう一人は永井の下宿先の娘で、小学校の先生をしている森山みどりである。(後に永井の妻となる女性で、実名は「緑」である)演じているのはこれまた美しき我等が月丘夢路さん(^^♪この頃の女優さんの美しさには今時の女優さんの美しさと違い芯がある。品性がある。何故にその芯と品性は失われてしまったのかだと?俺に聞くな!(笑)その森山家は浦上天主堂近くにあった。父親孫左衛門は牛の売買で暮らしを営んでいたが、先祖は実は隠れキリシタンで信者たちを指導していた。現在はカトリックで、一人娘であるみどりの信仰も厚く、洗礼名をマリアと言った。あ、父親孫左衛門(中央)を演じているのは薄田研二。懐かしい(^^♪永井は美しいみどりさんに心惹かれたこともあり、教会を覗くこともあった(^^♪浦上天主堂で信者を前に説教をしているのは鈴木神父…、これまた懐かしき青山杉作(^^♪浦上天主堂は1914年(大正3)に完成したが、1945年(昭和20)の原爆投下により原型を留めぬほどに崩壊した。ちなみに浦上天主堂の保護者は「無原罪の聖母(マリア)」である。またよく知られる江戸期のキリシタン弾圧を「浦上崩れ」、明治期の弾圧を「浦上四番崩れ」と言う。1959年(昭和34) に元の場所にカトリック浦上教会が建設される。実は私、若い時分に「さんたまりあ四番崩れ」と題し、上演したことがあった。珍しく半分ミュージカルだったが、それを書いたのも遠くにこの映画の影響があった訳よ(^^♪観てるうちにそんなことまで思いだされたので忘れぬうちにと書いといた次第(笑)。1933年(昭和8)1月、満州事変に伴い、永井に召集令状が来た。朝倉教授と看護婦幸子は無事を祈り、みどりは、セーターと「公教要理」(教えがわかりやすく書かれたもの)を手渡した。2月1日、永井は幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍。戦争と負傷兵の手当てを前に永井は、人間には絶望しかないのかと悩み、公教要理を読み、キリストへの理解を深めていった。1年後の2月、帰還して大学の研究室助手に復帰すると、浦上天主堂に鈴木神父を訪ね、やがて入信する。1934年(昭和9)6月のことで洗礼名をパウロとした。洗礼後、みどりの仲介で、カトリックの信徒組織「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会 (ヴィンセンシオ会)」に入会し、無料診断・無料奉仕などの活動を始めた。永井に恋心を寄せていた看護婦さち子は永井の心がみどりにあることを知ると、従軍看護婦を志願し長崎を去ることを決心。それを知った永井は君の行く処ではないと止めるのだったが。この映画はGHQの検閲の目を逃れるためラブロマンスの意匠を凝らしているのだが、恋に破れたわが津島恵子に私は甚く同情するのであった(^^♪同年8月、永井はみどりと天主堂で結婚式を挙げた。そして1935年(昭和10)、長崎医科大学の助教授に就任。同年に長男・誠が、その2年後には長女・茅乃が誕生し、永井は幸福に包まれた。長崎は夜景がひじょうに美しい、私の好きな街(^^♪これはたぶんオランダ坂。あ、ちなみにウィキペディアによると永井は、1937年(昭和12)、長崎医科大学の講師に就任、1940年(昭和15)、長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任したとの事だ。永井は治療に、研究にと体力の限りを尽くした。そうしてやがて体調の不良に襲われ、後輩医師に自分を診断させた。永井には自分の病がわかっていた。当時の放射線医師には宿命とも言える白血病である。内科医師の診断も出た。慢性骨髄白血病、余命3年。彼は良い機会だと言い、学生たちに自分の体を診せた。これもウィキペディアによれば、発病は1940年 (昭和15)と推定され、被曝による白血病、余命3年と診断されたのは1945年(昭和20)6月との事である。永井は妻みどりに隠さず率直に自分の病を告げた。そうして言葉を失うみどりにこう言った。「放射線医師の勲章だと思っている。3年と言えばまだ長い。今後も大学に残って研究を纏めたいと思う。君には苦労ばかり懸けたが、すまない、許してくれ」みどりは泣いた。空襲が全土を覆い始めた。永井とみどりは二人の子供たちを疎開させることにした。その前日、二人は子供たちを海辺へ連れていき、一緒に遊ぶ。ここは私の記憶にかなり鮮明に残っていたシーン。父・永井が明るく笑いながら縄跳びの縄を回してやる。何も知らない、何もわからない子供たちはひどく嬉しげに、楽しげにキャッキャッはしゃぎながら縄を飛ぶ。その光景を母・みどりも微笑みながら眺めている。永井とみどりの心は絶望と悲しみで一杯なはずなのに、その気配を子供たちには露も見せない。まさに心を倒立させて表現している訳だが、観てる側はそれが分かるだけに一層激しい悲しみに襲われる訳だよね。さすが大庭秀雄監督、いま観ても見事だなあと感動しちゃう(^^♪※「長崎の鐘_1」※「長崎の鐘_2」■94分 日本 ドラマ/伝記監督: 大庭秀雄 製作: 小倉武志 原作: 永井隆 脚本: 新藤兼人 光畑硯郎 橋田壽賀子 撮影: 生方敏夫 音楽: 古関裕而 出演永井隆 若原雅夫みどり 月丘夢路山田幸子 津島恵子朝倉教授 滝沢修(民芸)山下 三井弘次孫左衛門 薄田研二(新協)鈴木神父 青山杉作(俳優座)吉崎医学士 清水一郎爺や 高堂国典五島教授 奈良真養谷村助手 土紀就一永井誠 村瀬禅高松栄子小藤田正一川村禾門 




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