謙遜でもなく、自虐でもなく、私、本当に性格の悪い子供だったんですね
なんつうか、ひねくれているし、自分勝手だし、ワガママだし、気に入らないことがあれば泣くか、殴るか、駄々をこねるかで。
今、子供時代を思い返してみても、「なんで、あの時あんなことをしてしまったのか・・・?」「なんで、あんなことを言ってしまったのか・・・?」ってことが多過ぎで、大変です。
大人ってね、「消すことの出来ない後悔を抱えている人」っていう定義で言われたりもします。
そういう、思い返すと胸にチクっとささるような後悔や罪が、今の自分の道を正してくれるっていうような意味合いもあるのでしょうが、私の場合、チクチクが多過ぎの為、全ての罪を償うのには、あと、300回くらい人生をやりなおさないといけない気がします。
他者に対するやさしさが希薄だった私が、成長していく過程で、1番、衝撃を受けたのは、学生の時に始めたボランティアで幼稚園ぐらいの子供たちと向き合って、「彼らは、5歳、6歳の時点で、もう俺より大きな優しさを持っているじゃねえか・・・。」ってことを知ったことです。
・アメとかお菓子とかの美味しいものを手にしたら、それを他の人にも分けてくれて、それに微笑んでいること。
・誰かが転んで泣いていたら、一生懸命慰めて、さすってあげられること。
・誰かを悪く言う人がいたら、「そういうこと言っちゃダメだよ!」って言えること。
そういう姿をたくさん見て、人に対する優しさというのは、ある意味、大人になって成長して獲得していくものではなくて、優しい人は、子供の頃から優しいんだな・・・、ってことにショックを受けましたね。
ただ、そんなことを言ったって、「俺にはDNAに優しさが組み込まれてねえからしょうがねえべ!」って開き直れるほどのアホではないし、そんなことで済ませられる案件でもありません。
ナチュラルにフラットに、心から自然ににじみ出る優しさは持ちあわせてはいなくても、偽善でも何でも他者に対する優しさを持っていないと、コミュニケーションってのは円滑には回りませんから。
当たり前だけど。
なので、「相手を想像し、相手のことを考えて、相手にとって心地よいアレコレを方法論として考えて優しさに変える」という、クソまだるっこしいし、ウソくさいことこの上ないやさしさのプレゼンから始めたわけですが、しょうがないです、他にやり方を知らんから。
やさしさってなんだよ?思いやりってなんだよ~~~~!!ってことですが、さすがに昔の人は偉いですね。
ちゃんと言語化してくれてます。
仏教のとある経典に「無財の七施」として書かれています。
眼施(げんせ/がんせ)優しい温かいまなざしで人に接する。
和顔施(わげんせ/わがんせ)優しいほほ笑みをもって人に接する。
言辞施(ごんじせ)優しい言葉をかける。
身施(しんせ)肉体を使って人のため社会のために働く。
心施(しんせ)心から共に喜び共に悲しみ、感謝する。
床座施(しょうざせ)自分の座席や地位を譲る。
房舎施(ぼうしゃせ)雨露をしのぐ場所などを分け与える。
カネはなくても、他者に対してやさしく、思いやりのある行動は取れるよ。それはこういうことです、って感じですね。
特に、上の3つの、「やさしい眼をする」「やさしく笑う」「やさしい言葉を使う」ってのは、誰でも簡単に出来る方法論ですね。
多分、「あなたの回りにいる人で、1番やさしい人ってどんな人ですか?3人くらい挙げてみて下さい。」って言って想像してみてもらった時に出てくる人は、多分、やさしい目をして、やさしく笑ってくれて、やさしい言葉がけをしてくる人だと思うんですね。
「元々やさしい人」ってのはいますよ?
だた、行動としてナチュラルにやさしく出来てしまうということと、「思いやりというものが、いかに暖かいものであるか?」っていうような理解を自分の内部で確かに持ちえるかどうかは、やっぱり体験してみないと獲得し得ないものだと思うんですね。
もちろんそれを、10歳で獲得して、自分の内部に確かに沈めて、自分の周りの人への行動に変化させることの出来る人もいれば、私のように「意味わからんし、わけわからんし!!」っていう「優しさの落ちこぼれ生徒」みたいなタイプは10年、20年かけて、散々、色んな経験をしてようやく理解出来るようになるのでしょう。
もうね、それはそれでしょうがないと思います。
だって、しょうがないでしょ?
つうか、「遅ればせながら、優しさの意味はちょっとわかりました。次はそれを普通に出せるように頑張ります!」って感じでも、何にも気づかないで人生を終えるよりはマシ。
自分のやりたいことはやったらいいし、好きな人には「好き」って言ったらいいし、行きたいところには行ったらいいし、食べたいものは食べたらいい。
ただ、人生ってもんをやっていくと、必ずどこかで上手くいかないことや、悲しいこと、つらいこと、苦しいことが起きるし、時には死んだほうが全然いい!って思ってしまうようなことが置きたりもするけれど、そういう時に自分を救ってくれて、暖めてくれて、泣いている自分の肩を抱いて、流れた涙を吹いてくれるのは、自分の周りにいる優しい人であり、そういう人の思いやりによって救われるんだよね。
それは、本当に有り難いことだから、出来ることならば、自分もそういうことが出来る人間でありたいって思うのよ。
出来ればね。
だから、君にも出来ればそういう人間であって欲しいなあ、ってことは思うなあ。
優しい人になれってことは強要出来ないし、強要したって無意味です。
ただ、自分が優しい人であれるかどうか?
ただ、それだけ。
出来れば、そうありたいよね。