先日お会いした田口ランディさんの「神様はいますか?」というエッセイから。


「神様はいますか?」と聞かれたら、私は「たぶん、いると思う」と答えようと思う。見たこともないし、対話したこともないけれど、いてくれないと都合が悪いんだ。

なぜ自分がこうして生きていて、他のたくさんの人たちが死んでいくのか。

そのことをときたま、考えてしまう。

なぜ自分が日本という国に生まれて、こんなに元気に、小説なんか書いて、生きているのか。この地上には、六十億以上の人間がいて、それぞれに意識をもって、それぞれの国、それぞれの環境で生きている。それなのに、私はなぜ私なのか。

そのことをときたま、考えてしまう。

そして「問い」を発する。見知らぬ誰かに向かって。

問いの先には神さまがいる。いてくれないとちょっと困る。問すら発せなくなってしまうから。

私がこうして生きていることの意味を、そして私が生きている限り、私以外の人は先に死んでいくことの意味を、私はときどき問う。問わなければ苦しくなる。





私もね、問うてしまいますね。

なんで、俺はこうして生きているんだろうか?

なんで、あの人は死んだんだろうか?

なんで、俺の人生はこんな感じになっていて、なんで、あんなことが起きたんだろうか?

俺の人生はいつ終わるんだろうか?

俺の大事なあの人の人生は、俺より先に終わるのだろうか?

とか。

ふと、思っちゃうわけですよねえ。

「なぜなんだろうか?」っていう問いを。

人生には意味なんてないのかもしれないけれど、切なかったり、苦しかったりすると、そこに意味を求めたくなる。

意味が欲しくなる。

意味があれば、まだ救われるし、意味があれば、いつか、何か違う結論にたどり着けるかもしれない。

いつか、その問いと答えが意味付けされて、全部繋がったらいいな。




「人生に意味なんてない」ってことも、「人生には意味がある」ってことも、結局どちらも証明出来るもんではないから、信じるか信じないか、でしかなくて、私は、「人生には意味がある」ってことを信じたい。

で、答えを知りたい。

そう思っていた方が楽ですね。