悲しみがあるのはつらいことですが、「その悲しみはなぜ生まれてきたのか?」ってところに視点をずらしてみると、「そこにあるのは悲しみだけじゃなかった。」ってことを思えたりします。
重い悲しみのまっただ中にいて、泣くことしか出来ないような人には意味をなさない言葉かもしれませんが、少しでも悲しみから距離を置けるようになった時には、そんなことを考えてみるのも有効な気がします。
「誰かを失ってしまった、どうしようもないほどの悲しみ」とか、「誰かが去ってしまった、救いようのないほどの寂しさ」とか、そういうのって、「その人と出会えたかけがえのない大きくて強い喜びの裏返し」なんだよね。
3軒隣の山田さんのご主人が亡くなった、ってことを聞いても、別に悲しみはやってこない。「そうなんだ。ご愁傷さまです。」ってことを普通に思うだけ。
その人がいなくなって、その人が去ってしまったことに、胸がえぐられるほどの悲しみ・苦しみ・寂しさがやってきているということは、それだけの大きな喜びや愛しさがあった証拠なんだよね。
誰かを失ってそれほど悲しめるということは、それほどの喜びをくれた人と自分の人生において出会えたっていう証拠。
強い悲しみは、強い喜びと強い感動の証明。
「悲しみ」というのは、「人生の尊さ」の証明だ。
だから、出来ることならば、それほどの出会いと別れを悲しめる自分の人生を喜べたら素敵だね。
死にたくなるほどの悲しみがあるのならば、それは、死にたくなるほどの素敵で素晴らしい出会いが会った証拠。
またそんな時
人が求める光というものは、ほんのちょっとしたモノで良いんですよね。
自分の周りの1mくらいの場所が、ポッと明るくなるくらいの光。
とりあえず、その光があれば、歩くのに困らないくらいの光。
歩くのに困らないだけの光があればね、人は歩き始められます。
歩くのに困らないだけの光があれば、立ち上がって動き出すことが出来る。
誰かが悲しみや苦しみの闇の中にいる時に、たとえ、それがどれだけユックリとしたものでも、歩くのに困らないだけの光を照らせる人でありたいものです。