思春期には、
「生きるってなんなんだ、このやろ~~!!」
と、日々、苦しんでいた頃があった。
思春期の時のあの感性、感受性、痛みは、今の私にはもうない
おそらくは、違う形に変化しているのだろう。
ただ、そんな痛みがないからこそ、日々、平穏に、「ま、どうでもいいべ。」って感じで生きていられるのですが。
「友よ。生きているのが苦しい人には、死が解決だと思われるだろう。生きているのが厭になった人には、死は休息だと思われるだろう。ところで、君は今、解決か休息を欲しているのか?」
「違います。そうではありません。ぼくは苦しくもなければ、疲れてもいません」
「では、どうして君は死を考える」
「ぼくは死にたいのでも、生きるのが厭なのでもありません。ぼくが知りたいのは、どうして人は、ぼくは、死を選ぶことができるのかということなのです。望んだわけでもなく、なぜ、この選択が、生きているぼくたちには可能なのでしょう?
師よ。ぼくにはわかっています。可能なことがすべて正しいわけではないことが。でも、可能なことが、すべて悪いわけでもないでしょう?もし生きているのが善いことと決まっているなら、なぜ、ぼくたちは死を選ぶことができるように生まれてくるのですか?」
「ああ、友よ、そのとおりなのだ。生も死も、善いことだと決まっているわけでもないし、悪いことと決まっているわけでもない。それは人が決めることで、初めから善い生や悪い死があるわけではない」
「では、自ら死を選ぶことは悪いことではないのですね」
「善悪を言うのは、意味がない。それは人の一時の判断で、なんら確かな根拠はない。しかし、友よ。人は自ら死ぬべきではない。たとえ、それが悪いことでなくても、その人にとって生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、自ら死ぬべきではない」
「それはなぜですか?師よ、なぜそうなのですか?」
「なぜと問うてはいけない。理由を求めてはいけない。理由はないのだ。これは決断なのだ。友よ、君は自ら死を選んではいけない」
「でも、ぼくは死を選べるのです。死は悪いことではないと、師もいま言ったではないですか」
「選べるからなのだ。選べるから、死ではなく、生を選ぶ。理由のないこの決断が、すべての善きことをこの世に創るのだ」
「では、選ぶことができなければ、この世に善も悪もないのですか?」
「そうだ。理由もなく生を選ぶ。それだけがこの世の善を生み、善を支える」
「ああ、それは、苦痛だ!それはぼくにはとても苦しい!!」
「友よ、君だけではない。多くの人にとってそれは恐るべき苦痛だ。だから人々は、この選択を別の存在に託す。彼の責任にして、彼の命令に変える。<神>だ。」・・・・・
私はあらゆる宗教に縁が無い。
けれど、自分が唯一の信者である
自分教の教祖でありたい。
そう思うのです。