人生ってもんをやっていると、ふいに、ろくでもないことがやってくることがあります。

「なんで、俺だけこんなに苦しまなきゃならないんだ。」「どうして私だけ、こんな思いをしなきゃいけないの。」と言うような。

その悲しみ、苦しみによって、全く意図せずに心臓がバクバクし、不意に涙がこぼれ、体は痛く、「胸の奥に重い鉛がある」ってことが比喩でなく身体感覚としてアリアリと苦しみとして存在したりします。

飯なんか食べる気はしないし、昨日まで楽しかったこと、嬉しかったこと、好きだったこと、それらの全てが意味をなさなくなり、一切の価値を持たなくなったりして。

思うことは、「死」だったりしますね。

死ねば楽になるんじゃないか、と。積極的にこの世とおさらばするために自殺しようとは思わないけれど、殺したいならば誰か殺してくれ、っていう感覚。死ぬための行動すら煩わしく、どうでもいい。

そう、あらゆることがどうでもいい感覚。

「とにかくこの、苦しみ、悲しみ、つらさを取り去ってくれ・・・・」ってことだけを願います。


私にはね、そういう心境の人を救うことはできません。

本当に残念なことですが、そういう心持ちの人の心を軽くしてさしあげる言葉は持ち合わせていない。

持てたらいいなあ、って思いますよ。魔法のように一瞬にして、悲しみや苦しみを抱えている人の心を軽くしてあげられる方法を。

でもない。

ごめんなさい。


悲しい時、つらい時。

それは、「悲しんで良い時」「苦しんで良い時」なんだと思います。これは私の言葉ではありません。私がつらく沈んていた時に友人が言ってくれた言葉。

悲しい時っていうのは、思いっきり悲しんで良い時、悲しめば良い時。

それ以上でもなく、それ以下でもなく、それをして良い時、それをすべき時。



つらい時、悲しい時、苦しい時、人は孤独を感じます。

「この苦しみを誰もわかってくれない。」「この悲しみを誰も理解してくれない。」「宇宙の冷たい暗闇の中で、こんな思いをしているのは自分1人だけだ。」と。

でもね、どこかに確実に、その痛みをわかってくれる人はいます。

どこかに必ず、その痛みをわかりたいと思っている人はいる。

あえて、傲慢に強い言葉で言えば、「私は孤独で1人だ。」っていうのは、あなたの勘違いの思い込みでしかない。



必ずいるんです。どこかに。痛みをわかってくれる人が。

その人は、きっと手を広げて待っている。

あなたを受け入れたい、あなたを受けれることが出来たらいいな、と思って、両手を広げて、柔らかく微笑んで待っている。

そういう人が確実にいます。



悲しんでいる人、苦しんでいる人を一瞬にして救える人はいないかもしれないけれど、悲しんでいる人、苦しんでいる人のそばにいて、共にそれを感じさせて欲しいって人はいるものです。ありがたいことに。



「絶望」って、望みが絶えることですよね。

何の望みが絶えていますか。

この苦しみがなくなることはない、この苦しみは誰にもわからない、この苦しみが永遠に続く、っていうようなことですか。

それがなくなるかどうかはわかりません。軽々しく、「その苦しみはそのうち消えるよ。」とは言えない。

でも、少なくても私は、あなたの苦しみや悲しみがなくなることを願いますし、できることならばそばにいて差し上げたいと思いますよ。



何も出来ないけれど。


だいじょうぶ。

きっと、だいじょうぶ。

そう言わせてください。

だいじょうぶだよ。









あなたの心が出来るだけ穏やかでありますように。