はるか昔、ドイツの平和村というところにボランティアに行き、紛争や内戦、枯れ葉剤や地雷で、怪我や病気をした子達のケアをする場所に行って感じたことです。
ここにいる子供達は、様々な困難や、悩み苦しみを抱えている。
でも、それは世界中の誰もがそうだ、ってこと。
不条理な暴力により、目の前で家族を殺され、身体を痛めつけられている子も、クラスの誰もに無視されて孤独の底であえいでいる子も、深く傷つき悩んでいる、ってことに関しては同じ。
思春期で毛深くなったとか、体臭が気になるとか、親とうまくいかないとか、「そんなもん贅沢な悩みだ。」って言ってしまうのは簡単だし、私自身もそう思ったりもしますが、悩み、苦しみは、常に個人的な、個別のもの。
悩み、苦しみは比較は出来ないし、比較する意味もない。
清潔で安全で、三食困ることもなくダイエットに勤しみ、戦争もなく、明日誰かに殺される心配もない国でも、年間3万人が命を絶ってしまうのは、誰かの苦しみや、どこかの苦しみを、自分の苦しみと比較しても、何も意味がないことを如実に物語っています。
人間、誰かの苦しみ、悲しみ、痛みを同じように共有できないからこそ、笑って生きていける。
人間がテレパシーかなんかで、常に誰かの痛み悲しみを共有するように出来ていたらとても生きていけません。
誰かの痛みは、自分は感じることのできない「誰かの個人的な痛み」だからこそ生きていける部分がある。
でも、人間、1人では生きていけない。
誰かと寄り添うことなく、誰かに寄り添われることなく、たった1人で生きて行けはしない。
寄り添うって何か。
悲しみに寄り添うこと。
苦しみに寄り添うこと。
喜びに寄り添うこと。
それって何か。
同じ思いを完全に共有することはできません。
でも、体験から想像力を伸ばし、相手に近づくことはできると思っています。
それでも、相手の悲しみ苦しみを完全に共有できることはない、と覚悟を決めること。
誰かの苦しみも、自分の苦しみも、そこに大小も軽重もなく、どちらも「苦しみ」であると納得すること。
それでも相手に近づきたいか寄り添いたいか、っていう問い。
よくわからない。
よくわからないけれど、よくわからないからこそ、その問いに答えたい。