はじめに

 

 武田軍に包囲された長篠城から5/11抜け出した強右衛門は岡崎城に向かい、長篠城に帰る直前に5/15武田軍に

捕まり、翌5/16に磔にされる。

 

 4日で往復、5/13頃に岡崎城にて信長と家康に

強右衛門面会している。

 

 織田軍と徳川軍が連吾川沿いに布陣したのが、5/18で

武田軍の攻撃開始は5/21早朝なので、馬防柵と土塁の

構築は2日間程となる。

 

最近の歴史学者の意見

 

 織田軍の鉄砲の数は1000丁とか。武田軍の騎馬突撃は

なかったと主張する人がいる。

 

 私は普通の軍事知識から支持できない。

 

 

わたしの妄想

 

 武田軍は経済力の大きさから織田軍の兵力が大きいのは

知っていた。

 

 武田軍の戦闘力の大きい騎馬隊の使用は、量より質の

戦略で常識である。

 

 鎧武者は普通の足軽兵など槍の一振りでなぎ倒すのである。今でいう人殺しが、商売の足軽たちも、相手が鎧武者ならば

元気なうちは命あっての事なので、避けて。

 

味方の鎧武者に相手をしてもらしかない。

 

 しかし、鎧甲冑は30kgもあり、重く、素早く動くとか、苦手で、疲労を減らすため馬に乗るである。

 しかも、武田軍は馬の扱いも素晴らしく、鉄砲に

狙われたら、即座に馬を横倒して、弾を避け、

 

 そのあとは即座に立ち上がり、次弾装填中に鉄砲隊に

切り込むような、技もあったらしい。

 

 当時の騎馬の武者も馬も最高レベルの部隊を有していた。

 

 

 対する織田軍は武田軍の騎馬隊は数が少なくても、

騎馬や足軽では、自軍の負けは確実と認識していた。

 

 そこで、ほぼしろーとの鉄砲足軽でも5人で武者一人を

同時に30mの射程で撃てば、国宝級の武者でも

倒せることを理解していた。

 

 つまり、お金で戦争に勝つ方法の実証実験。

 そうだとすれば、鉄砲の数は4000丁以上だと思う。

 

 鉄砲の弱点は、雨が降ると、屋内からの射撃は可能だが、

屋外は、油紙に銃を包んで、1発だけの発射が限度。

 

 次弾装填は20秒位だが、数発撃つと、筒内に燃え残りや

カスがこびり付くので湿らした布で掃除しないと、

破裂し本人はもちろん、周囲の人が死傷する。

 それに時間がかかる。

 

 発射の煙も視界の妨げになる。

 

 発射音が大きくて、声の指示が困難。

旗か指示棒か何かで指示を伝える工夫が必要。

 

 織田軍は馬防柵を2日で作ったが、それだけなら、騎馬も

鋸や鉞を持った工作隊で短時間で破られる。

 

 絶対に、武田兵を近づけさせない工夫

それは、連吾川を堀にすること。小さな川で

水量が少ないし川幅も大きくない。

 

 だから下流を堰き止めてダム化させること。

 

 織田軍の川上は水位も幅も十分に作るが、

徳川軍の下流は。堰き止める堰もあり渡河の場所が多い。

 

ゆえに、織田軍と比べて馬防柵を頑丈に作ったと思う。

 

 前線の長さは、織田軍2.5㎞。徳川軍1.5㎞程。

 

 私の妄想では、連吾川とその下流の豊川の合流地点付近に

大筒を、用意していたのでは、ないだろうか。

 

大筒の野戦への試用実験。大筒の有効射程距離は500m

しかし、弾はただの鉄球である。もちろん、偽装し隠す。

 

 武田軍の戦術は長篠城の抑えに3000人程残して、

約10000人を連吾川沿いに進出。

 

 攻撃は織田軍正面に陽動で2000人これは、

無理して攻めないが、いつでも、攻め込むように織田軍を

引き付ける役割。

 

 徳川軍へは、主攻で6000人、予備2000人か

 

 対する織田軍は2000人を予備として、

前線に8000人(内 鉄砲隊4000人)。

 

 徳川軍は別動隊に4000人。前線に7000人

(内 鉄砲隊1000人)、予備に1000人。

 

と見積もる。この数なら、武田軍は攻撃開始する判断を

するかもしれないのが理由。

 

 実は、織田軍の後方10㎞に別動隊10000人を

用意してある。それは、天気とか、状況がかなり不利に

なった場合の後詰めである。

 

 ちなみに、大筒は九鬼軍が操作して約6門1000人と、

物資と兵と大筒は、船で、運んで、秘匿する。

 

 信長はこれで、兵力が少なくても、大丈夫だと、

家康を説得したものと思う。

 

 家康としては、単独で武田軍と当たれないので、

信長案に乗るしかない。

 

 もし、当日が雨だったら、鉄砲と大筒が使用できないので、織田軍の別動隊を、呼んで対峙するとなると。

 

 武田軍は、状況が悪いと感じて、長篠城から押し出さず。

甲斐に引き上げた可能性がある。

 

 織田軍としても、また次に先延ばしとなり、一番困るのは、徳川で、再度、武田軍に侵攻される可能性が高い。

 

 徳川の別動隊、決戦の前々日の夜から、山に分け入り

長篠城を囲む鳶が巣山砦へ向かうのだが、

織田軍応援鉄砲隊500人を含む合計4500人が武田軍に

気づかれず、進むには、

 

 当時の山は住民の燃料を芝や枝に依存していたので、鬱蒼と茂るのは人口の少ない地域で、この辺も、獣道の周りはかなり木は少なかったと思われるが、

 

 それでも、大勢の兵が移動するには、道の整備が

必要だったと思われる。

 

(ちなみに、当時の人口の多い、京周辺等では、木が、

ほとんど刈りつくされ周辺の山ははげ山状態。まきの

取り合いで小さな殺し合いが発生する状況。)

 

 徳川はこの一戦を十分周到に準備していたと思われる。

 

 武田軍にしてみれば、北は上杉。東は北条。南は徳川。

西は織田。

 

 攻めるなら徳川しかない。ここで、徳川を叩きのめして、

織田とかと同盟を結びたかったかもしれない。

その様な謀略があっても可笑しくない。

 

 長篠の戦の結果をただの偶然ととらえる人が殆どだと

思うが。信長が大軍を、率いてきたのである。

 

 家康に武田内に裏切りものを作れと、発破を

かけたのではないか。

 

 そして、工作活動を家康が旨くやったのが、

勝因であると思う。

 

 信長は其れを見に徳川の陣近くに来たし、家康は、

釣り餌として、武田軍の攻撃目標になったのだと思う。

 

 しかし、信長も家康も大筒が敵にほとんど被害を

与えることが出来なかったのは誤算だった。

 

 信長は徳川へ至急、鉄砲隊予備を応援に向かわせた。

足軽では止めれないと判断していたと思う。

 

 家康は、崩れようとしている自軍を見て、

「ダメだこりゃ」と討ち死にを覚悟したかもしれない。

 

 現在は、本人が情報を敵に渡すつもりでないのに、

第3者の工作員が、仕掛けた防諜機器で、

情報が漏れる可能性が大きい。

 

 機密情報にアクセスできる人々は生きてゆくのが、

難しい世の中になっています。

 

以上