このブログは私の妄想なので、ロシアの人は

怒らないでください。

 

 

 信長は本能寺で死んではいない。その理由とは、

 

1,信長は、尾張統一後、街道沿いにある、関所を廃止した。

 

 利点、流通で関所を通るたびに通行を、止められ、関所で、通行料金を、

    取られる。それにより、物の価格が高くなり、経済が拡大し難くなる。

    また、1国の街道に関所が何か所も存在していた。

     

 欠点、関所で通行人を検分して、怪しい人物の通行を通さないのが原則。

    それがなくなれば、現在でいうスパイが自由に入り込む恐れがある。

 

 対策、実はスパイが関所に来ても、関所の役人は、まったく役に立たないことが、

    わかっていた。関所を通らないで侵入も容易なことも分かっていた。

     関所を無くす代わりに、町の宿に1泊することを義務付けた。

 

    スパイに対抗するのは、スパイに任せる、つまり、忍者を大量に、

    町に置き、監視検挙をさせた。つまり、少なくても、京で不意打ちを

    食らう可能性があり得ない。

 

2,信長の補佐役が現時点で、誰かはっきりしない。

 

  私は、明智光秀であると思う。秀吉ははっきり言って、情報戦には

 たけているが、軍事以外のこまごまとしたことを処理するには、

 不得意で采配者は、明智だと思う。

 

3,本能寺で死んだのはだれで、襲撃したのは誰か。?

 

  つまり、信長と明智は仲が良く、一緒に欧州旅行に旅立った。

 

 本能寺には、信長の影武者。襲ったのは、明智の影武者。

  なぜか、影武者同士は仲が悪かったのではないか。

  「臨死体験の木内さん」参照し想像。

 そして、信長の影武者を始末するように考えたのは多分信長。

 その理由は不明だが、多分初めのシナリオはこんな感じ。

 

 数百人の第3の武装集団が、存在し、信長の影武者とその護衛50人くらいが、

宿泊している本能寺を襲撃して、影武者を暗殺する。その賊を、明智軍が、掃討して、京の警戒をする。つまり天下は、信長の息子、信忠が受け継ぐ計画。

 

 その為、京に張ってある、忍びの警戒網を機能停止させ、緊急事態が、信長の

影武者に知られることのないように手配されていた。

 

 しかし、歴史はそうならなかった。裏切り者がシナリオを、書き換えて

天下を簒奪したのである。それは誰かは、それを実施できる人物である。

 

 いろいろな、明智光秀を裏で協力した人物に様々な人物があげられ、歴史学者が、

あーだコーダ言っているが、そんなことが出来るのは、一人しかいない。

 

 信長と明智光秀がいなければ、残りは、秀吉である。

 

 影武者光秀は、神社などで、多分、信長の忍びを装った、秀吉の忍びに、

騙され、賊がすぐに本能寺を襲うので、進軍と警戒を煽り、しかも、村井や信忠にも信長が光秀に討たれた。すでに、京は光秀軍に封鎖されている等と、嘘を吹き込み、安土に逃がさないように手配し、

 

 もしかしたら、本能寺近くに来た時、本能寺で戦闘が起きていないのを

不審がっていた光秀を、上様の命令は、影武者を討つことだと、後押ししたのも、

秀吉の忍びで、とどめは、二条城に影武者が逃げ込んだから、攻め込むべしと、

注進したのも、信長の忍びを装った秀吉の忍びでは、

 

 なんでこんなことになったか、信長も、光秀も、長篠の戦が終わったら、

後は、二人で欧州旅行の準備が忙しく、国内の仕事は影武者任せだったのでは

ないかと考える。

 

 秀吉も、家康も信長周囲の様子がおかしいと感ずいていたが、そこで、

大博打を、打とうと考えるのは、秀吉だろう。多分自前の諜報機関を信長周辺に、

配置していて、(秀吉の生き残りのための保険)情報を集めている中で、

察知したのだろう。

 秀吉は、農民出で武士道なんてものはなく、手段を択ばず自分の利益を追求する。

 

 急いで光秀を討つ為に、

 

 高松で毛利と対峙しているところから、撤退は、武器を破棄することは

出来ないので、備前の港に大量の船を準備して待っていたことだろう。

 そこから、姫路、兵庫西宮あたりまで、60%以上の兵を移動させたと思う。

 

 その場合でも、受け入れ態勢を準備するには、数日では無理だと思うので、

信長が船に乗って、日本を出て行ったらすぐに、準備したものと思われる。

 

 金ヶ崎ののきぐちの殿を買って出たのも、十分に計画されていて、1日ぐらいでは、準備できるものではない。秀吉がどのように、計画実行するのか

ざっくり戦術を考えてみたので、読んでみてください。

 

 当時の武器の使い方、戦術の巧みさ、はっきり言って、現代戦でも

通用しそうであり、

 

 現代戦を十分研究している人物がその秀吉に変わったとしても、機敏な動きが

出来ずたぶん討ち死にする可能性が高い。

 

 金ヶ崎ののきぐち撤退戦の要点

 

 

 1,金ヶ崎城と手筒山城に兵を置いて、時間稼ぎの準備。

 2,敦賀平野から、朝倉と浅井に向かう街道の山の入り口に、

  待ち伏せ兵2か所。

 3,それらの撤退時の集合場所の笙の川岸

 4,そして最終防衛ラインの関峠付近

 

実際の戦闘の流れ

 

 朝倉軍が木の芽峠から敦賀平野に出るところで、待ち伏せ攻撃を受ける。

 

 狭い道では大軍を通すには困難なため朝倉軍の一部の兵を手筒山城方向に

向かわせる。

 

 なんとそこで、手筒山城から銃撃を受ける。

 

 朝倉軍からとすると、敦賀平野に出て、信長軍と戦闘中に金ヶ崎城と

手筒山城から挟み撃ちは避けたいので、城攻めをせざるを得ない。

 

 その間に、信長軍団は粛々と撤退し、殿の秀吉軍は撤退準備を進めつつ、

追撃を防ぐ手はずを準備する。

 

 秀吉は集合場所の笙の川岸と関峠に可燃物を集積し、よく燃えるように、

火薬も準備する。

 

 浅井方向の待ち伏せ兵を退却させ、笙の川岸集合場所近くに隠す。

 

 朝倉軍が多数集合してきて、防戦が困難になってきたら、木の芽峠から敦賀平野に

出るところで、準備した手順に従い、待ち伏せ場所から攻撃していた兵を

撤退させる。

 

 追撃を防ぐため、幾つも火薬を仕掛ける。

 

 朝倉軍は追って来たところを吹き飛ばされ、ほかにもいくつか火薬が、

煙を上げているので、しばらく追撃を停止する。

 

 2つの城の守備兵を静かに退却させる。

 

 やっと、朝倉軍は敦賀平野に出て、隊列を整える。隊列が整ったものから、

秀吉軍の集合場所へ前進開始。ここまでで、約5時間は時間を稼いだ。

 

 やがて、秀吉軍2000に対し朝倉軍8000以上の兵が向かう。秀吉軍は鉄砲を

バンバン撃つが、多勢に無勢、すぐに白兵戦に移るところで、

 

 城からの撤退してきた兵と、隠れさせていた浅井への待ち伏せ兵が、

朝倉軍側面に銃撃後、突撃すると、朝倉軍の先頭の兵の隊列が乱れて

一部に逃げ出す兵も出てくる。

 

 すべての兵を集合させた秀吉軍は、可燃物に火を掛け、川を渡り、

川にかかる橋も吹き飛ばす。火災が下火になるまで、朝倉軍は待つことになる。

 

 そして、秀吉軍は全員全力走で関峠を目指す。もちろん、川を渡った朝倉軍は

追撃をあきらめないので、100丁ぐらいの鉄砲隊3つで交互に反撃して、

撤退するが、さすがに、そのまま山を駆け上がるのは、体力的に無理だろう。

どこかで、休みが必要である。

 

 関峠入口手前の平野で、徳川軍が、待ち伏せしており、秀吉軍の働きを見て、

手ぐすね引いて待っているところに、朝倉軍が、突っ込んできので、

500丁ぐらいの鉄砲射撃を食らわせる。

 

 その間に、秀吉軍は、疲労した体にムチ打ちひいこら坂道を登って

行ったのだろう。

 

 秀吉軍が関峠に到達したら、徳川軍も関峠に向かう。もちろん、火薬は仕掛けて、

 

 びくびくしながら、朝倉軍が関峠に来たら、秀吉と徳川軍は、1000丁ぐらいの

鉄砲の射撃を朝倉軍に浴びせて、ひるんだ時に、峠を通れなくするように

大量の火薬で吹き飛ばして、退却した。

 

 朝倉軍は、高価な火薬を大量に使用しての仕掛けにたまげ、とりあえず、城は、

取り戻したし、夜になるので、不満だが、この辺で追撃をあきらめた。

 

 信長軍としたら、撤退を急ぐためには、できるだけ軽くする必要があり、火薬も

無駄に捨てるなら、仕掛けに使ったほうが良いので、もったいないが、

あきらめたのだと思う。

「歴史群像 激闘織田軍団」参照

 

 それと、ウクライナを攻撃するロシア軍との関係性は何かというと、

 

1,攻撃開始+5DAYで攻撃予定が大きく遅れていたのに、そのまま、

  攻撃続行した判断。明智光秀のスタッフが忍びのもたらす本能寺情報が

  正しくない可能性があるのに何故、本能寺攻撃を続行させたのかと同じ。

 

2.秀吉は、間者の理論は知っていたが、自分の足りない部分は、優秀な人材の、

  登用で補っていた。反対に、ロシアは諜報機関の人材で、政府を固めた。

 

3,ロシアは諜報機関の論理で人材登用を決めたので、少しでも反対の意見を

 するものは排除して、周りをYESマンだらけにした。

 

4,つまり、政治、経済、軍事の専門家の能力が、足りないと思われる。

  だけれども、判断ミスはそれら専門家の責任ではない、そのような専門家を

  集めた組織のトップの責任といえる。

 

   今から改革しようとしても、何十年の粛清で、50代くらいの経験豊富で、

  優秀な人材がロシアに存在しているだろうか。

 

   人材は本当に大切。日本もロシア以上に能力なしが国の上のほうに、

  いるようであるが、これから次第に表面に炙り出される。

 

   これからの時流はそうなるだろうと予想する。

 

 以上