武田の山県や馬場などの武将は信玄に殉じる為に無駄な突撃をして、死んだなどという歴史家がいるが、

 私はそんなことはない、一生懸命に勝頼を勝たせようとして突撃をしたと思う。なぜなら、三方が原から、3年間、徳川と決戦を

望んでいたが、徳川がいつも、避けていたからだ。そして、信玄が、三方が原で徹底的に追撃をしたが果たせなかったからである。

 

 しかし、信玄は3年兵を休めろと遺言したらしいが、それは大きな間違いだった。3年間で織田信長は大きくなり、徳川家康も武田と

同じくらいに大きくなってしまった。武田軍は信玄の死後も遠江や

三河の北側を攻撃し所有するが、武田本体を常駐するまでには

できず、落としても、甲斐に帰還してしまう。

 武田軍の農民兵で家の寄せ集め集団の欠点をさらしてしまう。

 

 信長は国の経済発展により、軍資金を稼いでいた。それに

対して武田家は金は取れたが、節約で資金を蓄えていた。

 

 当時の徳川は武田に攻め込まれるばかりだが、かたくなに

決戦を避け、耐え忍んでいた。

 織田信長の資金援助が無ければ間違いなく武田軍の崩壊前に

消滅していた。

 

 織田信長としては、兵力は数が少ないが、未だに、織田や徳川に対して、覇権の目的で攻めてくる武田を何とか暇なうちに戦力を

そぐ必要があったのである。

 それには、メインで徳川に戦ってもらう。もし、万が一、徳川が

ひどい損失を被ったとしても、その時は、三河を獲る。ことも

考えにあったかもしれない。

 武田軍は、信長に比べ兵隊や軍備をそろえる資金が、圧倒的に小さかったが、武田軍も300丁位は鉄砲を持っていたものと思う。

 

 しかし、高価な鉛玉や火薬はそんなに持てなかった思う。

 

 鉛は堺が外国から輸入していたし、火薬(酸化剤の硝酸カリ)も

たぶん当時は、国産はなかったと思う。つまり、輸入品である。

 

前にも述べたが、織田軍は絶対に武田軍と野戦はしたくなかった。

では、どのようにして、自分の陣地に武田軍を

攻め込ませるかだが、武田軍もバカではなく、忍びも優秀である。

 

織田信長の戦略

1、広い場所で戦わない。それは、騎馬武者に回り込まれない様に

 する為。

2、周り中敵だらけの信長は、忙しいので、長期の作戦は無理。

3、長篠城の救援はする。

4、もしかしたら、武田軍が攻めてこなければ、戦わなず、

  撤退も考慮する。

 

で、出した結論は、

1、武田勝頼が最近よく、攻めてくる長篠城と豊川流域に場所を

  決める。

2、武田軍が突撃してみようと思える場所に簡易防御施設を作る。

 

此処が重要、完全に砦をこさえると、警戒して攻めてこない。

つまり、攻め崩せると思わせる陣地で無ければならない。

 

 馬を防ぐ柵は作る。その前に堀を掘りその土を盛り上げて、

塁を作る。材木は美濃の山から切り出し、三河に船で送る。

さらに百姓に偽装した工兵で柵から200m位の距離まで

田んぼを作る。

 あぜ道は、馬が2頭並列に通れる以上の幅を確保する。

田んぼは千鳥に分布させる。

 馬防柵の上にさらに堀を掘って上下2段の堀にする。

 

場所は連呉川

想定する正面距離は連呉川の山側から豊川までの3km

 

敵陣とこちらの陣地の距離は300mと目の前で鉄砲の

射程距離200mにほぼ入る。

 (ちなみに三方が原の正面は10km以上の原野である。

 信玄の戦った川中島も正面10kmの川沿いである。)

 その下流は徳川が守り、馬防柵は念入りに2重にする。そして、

その正面1km巾で奥行き200mの、田んぼを馬防柵前に

沢山作る。

 

 次の手は、武田に長篠城が武田に味方するからすぐ来てほしい。

間違いなく徳川家康が決戦に来ると、お誘いの手紙を書く。

 

 徳川家康をおびき出して決戦になると信じた。武田は可能性を

感じて長篠城を包囲する。やっと、徳川と織田軍が連呉川に

到着したと報告が届く。織田の本体は丘の裏側に隠して全面は

開けた田植えが済んだ田んぼが、そのの向こうに馬防柵と

徳川軍。丘の上北側に信長が布陣。

 

 次の手は徳川メインで織田の馬廻鉄砲隊500人を加えた別動隊

大回りさせて山中を予め作っておいた道(短時間で静かに進行するには準備しなければ無理)を通り、武田軍包囲軍の背後を奇襲し、

壊滅させる。

 

 これで、信長に諮られたと勝頼は頭にきた。天候も雨で

無いので、退路が危ないから、撤退も考えたかもしれない。

ただ、何もしないで引き上げるのはメンツが立たない。

 

 物見の報告では柵と鉄砲隊がいる外はあまり兵は居ないこと。

目の前に徳川家康(おとりの餌)がいるし、

 

 実は死角につまり、丘の向こう側には1万以上の兵が息を

殺して、隠れているのだが、

 

 さらに鉄砲の数を少なく見せるために、鉄砲3丁を射手一人と

弾込め兵を2名つけて運用したと思う。

射撃は修練が必要だが、弾込めは慣れれば出来るから、

 

さらに早合という玉と発射火薬を一つの包みにして弾込めを

早くする技術を使っていたとしたら、鉄砲3丁の一組で

1分間に6発を撃てる。1500丁の1/3の500丁が

ほぼ連続射撃である。

 

 さらに、雨の時のための弓矢隊も1000程、弓は、

同時発射ならば大量に撃てる。

 

 大量の鉄砲や弓矢の同時射撃は、200m位では一つ一つの鉄砲や弓矢では標的に命中させることは難しいが、現代戦の機関銃の広範囲射撃で面を射撃すると、其の面上の敵兵に一定割合に

損害を与えることができる。(1700年頃のヨーロッパに於ける

横隊一斉射撃戦法)

 

以下は私のイメージです。

 

 勝頼は若い、三方が原の家康のように、判断を誤った。

一度攻撃して様子を見ようとしたかもしれない。

 

 ただ、頭に来たのは勝頼だけでなくメインの山県や馬場や内藤や

真田なども、目にもの見せてやると思ったのかもしれない。

 

 山県が突撃を最初にした。ところが、柵前の田んぼに入ると。

馬が動けなくなった。十分に耕された田んぼは実は馬止の泥沼

した。

 

 鉄砲隊は最初は、まず、武田軍の鉄砲と弓隊をつぶすことに

専念する。それが、済んだら、動けない馬やら、近づいてくる

兵やらを撃ちに撃った。

 

 しかし、鉄砲を連続射撃すると、銃身が熱くなりすぎて、

冷やさないといけない様に思う。それを武田軍は玉切れと

思ったかもしれない。

 

 本来ならば、損害が大きくなったら撤退するはずだと思う。

武田軍は兵が農民で石高が少ない国の為、結果的に

招集できる兵の数が少ない弱点があるから。

 

 ところが、山県がやられて、織田、徳川憎しになった。映画では、勝頼が馬場の第2波攻撃を指令しているが、

 私が勝頼の立場だったら、

「やばい撤退しろ」と叫んでいると思う。

 

 もう馬場は何が何でも、鉄砲隊を叩き潰すと思ったのに違いない。弾切れの今がチャンス。

 

 田んぼをよける様にすれば潰せると考えたのだろう。

 

 信長の方もこんなに損害出したら撤退すると踏んでいたから、

さらに第2波攻撃を仕掛けてきて、至急、丘の裏から、予備の

鉄砲隊を呼んで、さらに、矢の補給を急がせて、防衛陣地を

いくつか崩されたが、必死に防衛した。

 

 馬場の進撃があぜ道に制約されかなり遅くなったのが

原因かもしれないが、

 

 織田徳川軍は最後まで防衛陣地を持ちこたえた。

10分で3丁で60発X500セットで3万発になる。

最終的に各鉄砲50発を撃ち尽くしたならば、7万5千発になる。

 この数字は武田軍では想像もできない途方もない数である。

現代戦では驚かないが。

 

 加熱しすぎた銃身も水か小便で冷やし、射撃できるようになると、圧倒的火力が発揮され、武田軍精鋭の騎馬軍団5000以上が

壊滅された。長篠城包囲の3000も壊滅した。

しかし、包囲の軍勢はかなり逃げ帰ったが、精鋭騎馬軍団は

再興は不可能なほど、戦死したと思う。

 

 この飛び道具だけの戦果は織田信長も徳川家康も内心

驚愕したのではないか。鉄砲はかなりの数がよその大名からの

借りものだったらしい。その銃の射手はその大名の部下であるので、その戦果はすぐに全国に伝わったことになる。

 

 そして集団戦法で数が物をいう戦の時代の幕開けとなる。

もうひとり、武田勝頼も嫌というほど、新しい時代が来たことを

思い知ったであろう。

 

 そのあとは、丘の裏側に控えている予備隊の投入で追撃した。

そして、一般的な本の通りの展開で、武田軍の騎馬武者隊は復活させることはできず、いくら何でも騎馬武者と馬を5000騎10年で

そろえることは無理であった。