ひと粒の麦

ひと粒の麦

家庭集会で語られているイエス様からのメッセージを皆さんにお伝えします。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
~ヨハネによる福音書12章24節~

ルカによる福音書17章11~19節
イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。


十人の重い皮膚病(らい病)に罹った人たちがイエス様に出会われた場面です。この時代、らい病は不治の病と恐れられ、伝染病だと思われていた為、汚れた者として人々から隔離されていました。家族と離れてらい病患者たちは集まり一緒に暮らしていました。働くこともできず貧しい生活をしていたでしょう。そんな時にイエス様が自分たちの村に来られると聞いたこの十人の人たちは、イエス様に会って癒やしてもらおうと思いました。きっとイエス様が病人を癒やされると言う噂を聞いていたのでしょう。しかし、自分達は思い皮膚病に罹っている汚れた者だと思っていたので、イエス様から遠く離れたところから、声を張り上げて叫びました。『イエス様、私たちを憐れんでください!!』切なる思いでイエス様に叫んだのです。

すると、この十人にイエス様は、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われました。聖書の他の箇所でもイエス様が病気の人たちを癒やされた場面がたくさん出てきますが、ある時には、『きよくなれ』と言われたり、悪霊を叱って癒やされたりしています。なぜイエス様は、この十人に『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われたのでしょうか。


旧約聖書の御言葉を開いてみましょう

レビ記14章1~14節
主はまたモーセに言われた、重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もし重い皮膚病の患部がいえているならば、祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、


旧約の時代は、皮膚病の患者はまず祭司のところへ行き生贄を捧げる事で癒やされました。生贄は小さい小鳥であることも、皮膚病患者は貧しい者が多く牛や羊などを捧げる事ができなかったからです。イエス様はこの旧約の御言葉をもって、『祭司に見せなさい』とおっしゃったのです。すなわち、この十人が御言葉に従うかどうか、その信仰を試されました。彼らはイエス様の言葉に従って祭司長のところへ行く途中で癒やされました。彼らは御言葉に従ったその信仰によって癒やされたのです。

しかし、癒された十人のうち、九人の人たちはイエス様のところへ戻ってくる事はありませんでした。肉体が癒やされてた事が嬉しくて、急いで自分の家族のところへ戻ったのでしょう。たった一人のサマリヤ人(異邦人)だけがイエス様に感謝する為に戻ってきました。そして、この戻ってきたサマリヤ人にイエス様はおっしゃいます。『あなたの信仰があなたを救ったのだ』このサマリヤ人は肉体が癒されただけでなく、イエス様によって霊も完全に癒やされ救われました。その信仰をイエス様は認められたのです。

聖書には良きサマリヤ人の話が有名ですが、サマリヤは、北イスラエル王国時代の首都でした。バビロン捕囚の際に連れていかれたイスラエルの民はサマリヤの地へ連れていかれ、人々はアッシリアからの移民と混血していきました。血が混じった為、純粋なイスラエル人とは認められませんでした。汚れた民としてユダヤ人から嫌われていました。人々は決してサマリヤ人と交流することをせず、目的地に行くためにサマリヤ人の村を通らなければならない場合は、わざわざ遠回りをして行ったと言われています。

聖書は旧約から新約の間は約400年間の暗黒期があります。その時代は預言者も出ず。神の働きが全く見られないような時代に見えます。しかし、この400年の間に神の計画と準備が進められていました。そして、ついにイエス様が来られたのです。

ヨハネによる福音書3章16節
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
アーメン✨


神様は神のひとり子なるイエス様を信じる者に永遠の命を得させるためにイエス様をこの地に送られました。神の大いなる恵みの計画であり、神の愛がそこに表れています。この恵みは当たり前に私たちに与えられたものではありません。イエス様の十字架の犠牲によって与えられたものです。

十人の皮膚病患者は全員が癒やしの恵みを受けましたが、なぜ一人のサマリヤ人だけがイエス様に戻り感謝を捧げ救われたのでしょうか?
 

感謝の反対語は不満ではありません。
感謝の反対語は当たり前、当然だと思うことです。

イエス様の元に帰ってこなかった九人は自分たちが癒されたのはユダヤ人だから当然だと思っていました。自分たちはその特権にあずかっていると思っていたので、イエス様のところに戻ってくる事はありませんでした。ユダヤ人は自分たちが神の選民なので、自分たちだけは特別で神様からの恵みを当たり前に享受できる。自分達だけ良ければよいと思っていました。(今の多くの政治家たちと同じです)そこへ、イエス様が来られ、病人を癒やし、困っているものや苦しんでいる者たちを助け、異邦人のところへ行かれ、あなた方も霊的なユダヤ人だとおっしゃいました。そんなイエス様に対してユダヤ人たちは嫌悪感を持ち、十字架につけたのです。

私たちはどうでしょうか、私たちも当たり前に思い感謝を忘れてしまうことがありませんか。例えば、水も空気も太陽の光もあって当たり前。私たちは神様から無償の恵みを受けています。それについて心から感謝を捧げているでしょうか。何でも当然、当たり前と思っている人は感謝を忘れてしまいます。

また、イエス様を信じる者は御言葉の特権を持っています。しかし、私たちがそれを感謝し、御言葉に従って行動しなければ主に会うことはできません。そして主に会ったものは祝福され信仰がさらに強められていくのです。

ヤコブの手紙1章22~25節
そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

アーメン✨

毎週、毎週たくさんの御言葉が私たちに与えられています。それを当たり前だと思わず、その御言葉を心から感謝し実行するなら、私たちは御言葉の約束の力を得る事ができます。日々、ただ聞くだけ、アーメンだけで終わらず、真に感謝をもって御言葉に従うものになりましょう!!

※聖書の箇所は口語訳聖書より引用しています。