ひと粒の麦

ひと粒の麦

家庭集会で語られているイエス様からのメッセージを皆さんにお伝えします。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
~ヨハネによる福音書12章24節~

先週の主日は浜松のぶどうの木の集会に家族で出席しました。
浜松には韓国から神の家族が来日しており良き交わりの時をもてたこと感謝でした。

今週はこの御言葉から学びました。
ルカによる福音書5章1~11節
さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

誰を信じて生きるか、何に頼って生きるかは、私たちの人生において最も大切なことです。それによって自分の人生が左右されると言っても過言ではないからです。


私たちクリスチャンが生きる上で一番に頼るのはイエス様であり、御言葉です。御言葉には力があり、命があるからです。


イエス様が来られる前は、預言者が神の言葉を伝えていました。しかし、イエス様が来られ、その言葉に力があり、病人を癒やし数々の奇跡を行われ、肉の事ではなく、天の事、霊の事を権威ある者の様に語られるのを見た人々は、「この人は何か違う。きっと私たちを救ってくださる救い主だ!」と多くの人がイエス様に集まりました。イエス様が来られた時代、ユダヤ人はローマから強い弾圧を受けていました。多くの人が苦しみローマから解放されたいと思っていました。そして、イエス様の話を聞きたいと多くの人がイエス様の元に押し寄せました。

K兄弟(夫)も高校生の頃、自分の町から車で一時間半ぐらい離れた教会で、霊的力がある牧師が集会を開くと聞き、聞いてみたい!と思い友達と3人でバスに乗って集会へ向かったそうです。教会に着くと既に多くの人が集まっていて、なんとか前の方で聞けないかと人ごみをかき分けかき分け、やっと前の席まで行ってメッセージを聞いたそうです。集会は長時間になり霊的な満たしを得る事が出来きましたが、気付けば集会が終わったのが夜の11時を過ぎていました。帰りもバスで帰ろうと思っていましたが、時間が遅くなったので帰りのバスは無くなっていて、タクシーで帰るしかなく、3人ともバス代しか持っていなかったのでタクシーの運転手に訳を話して、家に着いたらお金を払うのでなんとか乗せて欲しいとお願いしてやっとの事でタクシーで帰ったそうです。それほど、霊的なメッセージが聞きたい!と無我夢中だったと語っていました。この御言葉の箇所を読んだ時、自分のエピソードがイエス様の話を聞きたいと集まった人々と重なり、思い出されたそうです。

主の御言葉に対してどのような心を持つかはとても大切なことです。絶対に御言葉を聞きたい!と求める心。そして命である御言葉に対して自分の心を捧げなければなりません。

決して二心(ふたごころ)では主を愛せないですし、従うことはできません。熱いか冷たいか、白か黒か。自分の心の決断が必要です。二心になってしまうのは、自分の考えが神の御言葉より上にあるからです。

ペテロもイエス様から、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた時、自分の考えがありました。(5節)
しかし、お言葉ですからと決断し、イエス様の御言葉に従いました。そして、イエス様が仰る通りに網をおろすと舟が沈む程の量の魚が取れたのです。それを目の当たりにしたペテロはイエス様の前にひれ伏しました。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」(8節)
ペテロは自分が間違っていた事。少しでも疑う心があった二心の罪を認めました。ここから信仰が始まります。イエス様を信じるだけではなく、自分が罪人である事を認め悔い改める。自分の考え、経験が無意味だと告白し捨てることから始まります。それから、こんな罪人の自分だけれど、主の為に自分が何が出来るか、主の為に何かしたい!という気持ちが生まれます。ペテロもイエス様から人間を取る漁師になると言われ、喜んで全てを捨てて主に従いました。

K兄弟も、高校生の時に聖霊を受け自分の信仰がはっきりと変わった体験をしたそうです。涙をもって徹底的な悔い改めをした後、聖霊を受けました。その後から、自分の信仰生活が180度変わったそうです。何か主の為にできないか。主が喜ぶことは何だろうか。といつも考え、思いついたのが教会の講壇に花を飾ることでした。自分は花を飾る知識も術もなかったそうですが、精一杯の心で喜んで準備をして毎週花を飾った。と語ってくれました。本当に変えられた人はその様な変化が必ずあります。

ヨハネの福音書1章40~42節
ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。

この御言葉からペテロの兄弟アンデレもすぐに従う人でした。伝えられたことを確実に伝えていく人がいる反面、徐々に確信を持ちながら信じる人もいます。

神の言葉は人間の言葉の様に簡単に変わったり、裏切ったりすることは決してありません。私たちが絶対的に信頼するなら必ずその通りになると約束されているものです。だからこそ私たちが一生を委ねて従うに値するものなのです。

そして、従えないからといって逃げるのではなく従えない自分を主に素直に告白し、更に御言葉を求めることです。その様な者に主は必ず答えて下さいます。

一番良いのは、まず御言葉を疑わずに従うことです。
「お言葉ですから。」とイエス様にまず従ったペテロの様に自分の考えを折って従う者になりましょう。

マタイによる福音書24章35節
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。

※聖書の箇所は口語訳聖書から引用しています。