革ベルトのバックルが千切れた。これで2回目だ。
いつから、何故持っているのかも忘れてしまったが、やたらに頑丈な茶色い革のベルトだ。
スーツなどで使っている他のベルトは、汗のせいなのか、裏地が破れたり穴が伸びてしまったりして、ものの2~3年で使えなくなるのだが、こいつは頑固に生き残っている。
一枚革だからかもしれない。
数年前、最初にバックルが千切れたときは、引き出しの奥に忘れ去られていた別のヨレヨレのベルトのバックルを流用して、くっつけてみた。
バックルの幅が狭かったのでベルト革の方を削って細くして、無理矢理につないだ。それがまた千切れたのだ。本体の革は泰然自若としたままに。
今度は千切れにくい構造のしっかりしたバックルを買おうと、インターネットで調べてみたところ、たまたま芝公園の近くに革ベルト専門店があるのを発見した。職場から近いので昼休みにでも行けそうだ。
この日、サンドイッチを3口で呑み込み、まだ師走上旬のしかも真昼だというのに、耳が痛いほどの寒風の中を歩き出した。
薄陽が差すことはあってもちっとも温かくないが、少しでも暖を取ろうとビル陰を避け、できるだけ広い道の、陽の当たる側を歩く。
東京タワーを横目で見上げながら愛宕警察署の前を通り、まるで隠れるような店構えのこの革ベルト専門店を探し当てた。
ガラス扉から覗くと、文字通り鰻の寝床のように間口の狭い店の壁には、バックルとベルトが所狭しと掛かっている。客が一人もいないが思い切ってドアを押した。
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扉の内側にぶら下げた金属の欠片が、チャリヂャリと変な音を立てる。これもバックルなのだろう。
「いらっしゃいませ」
のっそりと衝立の陰から出てきたのは、やや長めの黒髪に眼鏡、ピアスをして身形のみすぼらし若造。
ボーッとした眼差しに眠そうな声だ。いや、もしかしたらヤクでもやっているのかと思うほどに、呂律が怪しい。
わけを話して持参したベルトを取り出すと、
「そーすねー、まーバックルを買ってもらって部品を作って加工すりゃー、できないことはないっすよ」
しかしどういうわけか嫌そうな、煩わしそうな顔色と声音なのが気になる。
いくらくらいかかるものかと聞いてみると、
「まー三千円か四千円くらいっすかね。バックルの値段しだいっす」
「実は、最初に自分で付け直したときに、むりやり削って細くしちゃったんですけど、付け替えられます?」
ろくに触りもせずにチラとブツを見やって、
「まあそりゃ何でもできないことはないっすよ」
ますます嫌そうである。安物になど触りたくもないのかもしれない。
でもまあ、できるのなら頼んでみよう。
壁のバックルの列を眺め渡して、幅が合いそうな、シンプルで高くなさそうなのを2つを取ってカウンターに載せる。
「穴に通す金属部分が長いのと短いのとでは、長い方が少しベルトが緩くなるはずですよね。だいぶ短く切ってしまったベルトだから、長い方がいいかしら?」
「そーすけどー、まー、1センチくらいだから、たぶんどっちでも大丈夫っすよ」
でも、ちょっと目が覚めてきたかのように、やや呂律がハッキリしてきたように思えた。
少しばかり専門的っぽい話で刺激されたのかしら。あらかじめネットで調べておいた付け焼き刃なのだけれどね。
ところがこの若造、ふらりと衝立の後ろに籠もってしまう。それでもかまわず一人で話を続けてみる。
「ここに並んでいる完成品のベルトは一万円くらいはするようだし、かといって自分で直すのも難しそうだから、やっぱり直してもらった方がいいかなぁ」
意外にも衝立の向こうから返事が返ってくる。
「さがしゃー、安いベルトもあるっすよ」
「うーん、どうしようかな」と言いながら覗き込むと、なんとパソコンをいじっている。こいつ、ゲームでもやってんのか!?
と、「このバックルだったら二千円か、んー千五百円くらいっすから、部品と工賃を合わせてだいたい三千円か四千円くらいになるっすね」
あ、調べてたのね。でも、値段がちとアバウトすぎないかい?
「安い新しいベルトを買うというのも手だろうけれど、こいつは革だけはどういうわけかやたら頑丈だし、むやみにモノを捨てたくないんですよ。たぶん汗っかきだから、ベルトとバックルをつなぐ薄い革の部分が先に千切れちゃうんじゃないかと思うのだけど」
衝立の横からヒョイと頭だけ出てくる。
「それかー、油とか塗ってないみたいだから、ひび割れて切れたんかもしれないっす」
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お、それが不機嫌の元だったわけか! たしかに表面は細かいヒビだらけ。
頭が再び見えなくなる。
「あとー、どっかで安いベルト買ってきてー、バックルだけはずしてあとは捨てちゃってー、自分でバックルつけんのが一番安いかも」
おいおい、商売っ気がないな。しかし「捨てちゃう? 自分のところのベルト以外はどうでもいいんだ?」とは思うが、それは口に出さずに、
「まあ確かに、ここに並んでる素敵なバックルを、こんなボロベルトにつけるのは忍びないですよね」
見かけによらず職人気質だったんだなぁ。
全然メンテをしていないのは反省しないと。でもそれなら。
「あー、油っていうのはどういうのを使えば?」
「ふつーのー、靴とかに塗るやつでいいんすよ」
立ち上がってカウンターまで出てくる。
「靴墨なら使うけど」
「靴墨じゃないっす。靴に油塗らないんすか?。動物性とか植物性の油っす」
そういえば、ソファーなどには油を塗ってメンテするという話は聞いたことがある。
これは、自分でバックルを調達してつなぎ直し、油を塗ることになりそうだなぁ。
それにしても全然商売っ気がない。ちょっと申し訳ないと思い、
「えーと、そういう油って、ここでも売ってます?」
「あることはありますけどー、ふつーのやつでいいんすよ」
こいつ、店に置いてある油もこのボロベルトにはもったいないと思っとるな。
「いやいや、ようく分かりました。いろいろ教えてもらってありがたかったです。本当にありがとう」
「どーもー」
汗が出るほど暑い店内から寒風の中に戻り、2,3歩踏み出したところでハタと思い当たり、踵を返して、
「こんなに暑くしているから眠くなるんじゃない?」
と言おうかと思ったものの、さすがに余計なお世話か。再び歩き出す。
そして、一種の爽やかさと嬉しさを感じていた。
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今でもときおり、暑すぎる暖房の中に入ると、あの若造のことを思い出す。
たまには、ベルトや靴に油を塗ってやらなくては。
(このコラムは、3年ほど前の拙メルマガ記事を改稿・改題したものです。)