12月8日。
毎年この時期がくると、様々な報道やイベントが行われ、「あの記憶」が忘れられ、失われることがないようにという努力がなされている。
8月15日、あるいは8月6日や9日などもそうだ。
しかし私にも、そう、戦後生まれのこの私にも、実は「あの記憶」がある。それは必ずしも報道などのおかげというわけではない。
母方の祖父は、南方戦線で従軍中に終戦を迎え、捕虜として長く収容されていたそうだが、その話はついに一度も直接聞くことがなかった。
父方の祖父は空襲で亡くなったが、祖母からその時の話を聞いたことも、やはり一度もなかった。
伯父の一人は、過酷なシベリアで抑留をされた経験があるそうだが、これもまた、その体験を語り聞かせてはもらえなかった。
こうした、戦争中に大人だった世代の人々にとっては、その体験は辛すぎるもので、なかなか口にすることができないであろうことは想像に難くない。
終戦時にまだ小学生だった私の母は、私が子供の頃から今に至るまで、戦争で辛かった体験を繰り返し語っては、決して戦争をしてはいけないと、言い続けている。
その辛かった話とは、ろくな食べ物がなくいつも飢えていたこと。疎開中に干し草作りのための慣れない草刈りを強いられたこと。……
そして、父親は南方で亡くなったものと思いなさいと言われて悲しかったこと。そうした子供らしい記憶である。
もっとも、繰り返し聞かされて耳にタコができる思いの私は、最近では正直あまり心が動かなくなってしまったのだが。
孫たち、つまり私の子供たちも、おばあちゃんの昔話を再三聞かされ、うんざりしているだけなのではないか、と思うこともある。
ともあれこの世代は、当時の大人世代と比較すれば、口を開くことに躊躇いが少ないのかもしれない。
それでも、身内を失った人々は、やはり思い出したくないのだろう、そのことには触れないことの方が多いように思う。
当時大人だった世代ではただ一人、私の幼少時に隣家に住んでいた大伯母が、目の前で涙を流していたことは、心に深く刻み込まれている。
大伯母は、隣に住む義理の妹、すなわち私の祖母のところへお茶を飲みに来ては、
「太郎は戦争で死んでねぇ」
そう繰り返しながら涙を流し、台拭きで目をぬぐっていたものだった。
太郎とは、終戦のほんの半年前に、海軍航空兵として木更津基地から偵察機で飛び立ち、そのまま還らぬ人となったご長男のことである。
小さい頃の私にとっては、その言葉や涙よりも、お膳布巾はあまりきれいなものじゃないのに、ということの方が心配だった記憶がある。
しかし今でも時折、布巾でテーブルを拭きながら、大伯母の言葉と涙を思い出し、我知らず目の奥が熱くなってしまうことがある。
地方へ行くと、里山の周囲などに小さな一族・一家の墓地があり、そこに大ぶりな墓石が立っていることがある。
私がよく「遊ばせて」いただいているお寺の墓地にも、そうした墓石が何基かある。
ほんの数十年しか経っていないこれらの墓石にはたくさんの文字が刻まれ、他のものの2~3倍、見上げるような高さであることも珍しくない。
その墓碑銘は、○○陸軍上等兵、△△海軍衛生一等兵、◇◇陸軍憲兵上等兵……
おそらく戦死により特進しているのだろうから、一番下の二等兵か一等兵、非常に若くして亡くなった方々も多いのだろうと想像している。
側面に彫り込まれた几帳面な文字を読むと、どこを転戦し、どこで負傷し、どこでどのように亡くなったのかが克明に記されている。
そして文末には、
「留守宅には妻と幼い娘が残された。」
私は涙を禁じえなくなり、草刈り鎌を置き軍手をはずして頭の手拭いを取り、しばし掌を合わせて冥福を祈る。
台拭きを手にしたときに、あるいは、カーナビの画面を木更津の現・陸自駐屯地がよぎったときに、想起されてくる大伯母の言葉と涙。
もっと言えば、会ったこともないのにまなかいに浮かぶ、太郎おじ(従伯父)の姿と無念や望郷の想い。
墓石にびっしりと刻み込まれた追悼の言葉の行間から滲み出す、悲哀と労苦。
丈の長い草を刈っていてふと手を休めたとき、耳のタコの中から響いてくる母の言葉と、小さな掌にできた血豆の幻影。
これらは私に、自分自身が体験したかのような感情を引き起こさせる。
そしてこの感情は、まぎれもなく私にとっての戦争体験、「あの記憶」そのものである。
生還した特攻隊員、かろうじて一命を取り留めた戦傷病者、連れ合いや親や子をなくした戦没者・戦災者の遺族、こうした方々の言葉が今、少しずつ語られるようになった。
講演が行われ、映像化され、アーカイブ化されるようになってきている。
しかしそれをただ聞き、眺めるだけでは、「記憶」にはならないと思う。サーバーに電子化されて残るだけでは、なおさらだろう。
我がこととして追体験し、みずからの記憶と為してこそ、「あの記憶」は確かなものとなる。
その記憶を未来にまでしっかりと連れて行くことが、今を生きる我々の役割、責務ではないだろうか。私はそう思う。