平成元年に、裏社会から赤状=絶縁状を回され、堅気になって(成らざるを得なかった)、我が故郷の山口県のこの地に妻子を連れて、5人(妻は第三子の男児を懐妊)で帰って来た。


集合団地に直ぐに入居が出来る様に、東京都下の福生市に住んでいた時に、市長宛に、我がのこれ迄の生き様、生活の全てを、真実の侭に書き尽くし、居住すべく集合団地入居をお願いしたところ

「堅気になって出直そうとする貴方を、当方は喜んで迎え入れます、その前に一度直に会いたいので、当地まで来て下さい」

心温かい返信を頂き、単身で小野田市役所に出向き、私の熱き胸中を語り、真から堅気人として出直す事を誓い、私たち家族の為に、新しく建て替えて入居を待っていてくれた実家には帰らず、三十数年間棲み続けいる、この集合団地に過ごしている。

次男、三男と産まれ、6人家族を守る為に、形振り構わずに、どんな仕事でもしてきた。

唯哀しいかな、我がが誇りとし、男として、一生極道として生きる覚悟の上で全身(両腕7分から胸割りで、両足首まで)に彫り込んだ刺青と、左手小指の第二関節から切断した指の為に、まともな会社の就職先は総て面接だけで(採用が決まっても)、諦めざるを得なかった。

会社からの健康診断、夏になれば半袖上衣の衣替え、そのために涙を呑んで退職をしたり、の繰り返しをして来た。


次男が産まれた頃から、糠床を自己流で作り始め、3年目くらいから床味も馴染み、美味しいと言われる糠床漬けを、作れる様になってきた。

処が三男が産まれて数年経った頃に、私が仕事で何ヶ月間間隔で、数週間ほど名古屋に出向いていた時に、妻がこの糠床を腐らせてしまい、又初めから糠床作りをしなければならなくなった。


後に知るのだが、

糠床を腐らせると、その家庭に不幸が訪れ、滅んでしまう。

このせいではないのだろうが、学習障害のあった長男の育て方について、意見の対立が起こる様になり、妻とよくケンカになった。

こんな事が続き過ぎて、私は忍耐の限界に達し、三男が小学校1年生の夏の頃に、離婚を切り出し、子どもたち4人にはその意思を尊重し、父母の選択をさせた。

先ず最初に長男が

「僕はお父さんがええ、お母さんは嫌だ」

すると娘も、次男も、即同じ応えを出した。

三男の息子は判断ができないのか、黙っているので

「誉治、兄いちゃんや姉ちゃんが、父さんがええと言うからと言って、お前まで父さんを選ばんでもえぇけぇのう、誉治はまだ小さいからよう分からんじゃろうけぇど、母さんがええなら母さんについて行ってもいいんど。お前の正直な気持ちを言ってごらん」

そう言っても皆と同じ返事を繰り返してきた。


哀しそうな妻の顔をみるのは、胸中苦しくはあったが、内心には(俺の子どもを思う気持ちと、育て方は間違っていなかったと謂う)安堵感が溢れていた。


妻は実家の群馬県太田市に帰り、直ぐに交通事故に遭い、その後1年ばかり経って、癌の転移が早く亡くなった。


ひと回り下の妻は、干支も同じ戌歳だった。

そんな妻に基本から料理を教え、糠床の手入れやミシン掛け等も教えたりして来た事が、床漬けをする度に思い出されてきて、今になって ああしてやれば、こうしてやっておけば 、良かったと謂う後悔の様な気持ちが、湧いて来てならなくなる時が多々ある。

妻に対する懺悔の念が、そうさせているのか、まだ私には答えが出せないでいる。