発障害の長男が原因で、妻の言動に我慢の限界に達し、妻と話し合いをし子どもらの意思を尊重する事を第一に考え、四人の子を交えて


 父さんとお母さんは、別々に住んで暮らす事になったのだが、おまえたちは父さんと暮らすのがよいか、お母さんと暮らすのがよいのか、正直な気持ちでどちらかを決めて、好きな方を選んで決めてくれないか、の選択権を問うた。


長男が即答

ぼくは父さんと一緒に居たい。母さんは嫌いじゃけぇ。


娘も

わたしも父さんと一緒の方がえぇ、お母さんは嫌い。


次男も

ぼくも父さんがえぇ、母さんは嫌じゃ。


末っ子の三男は

父さん、ぼくも父さんと一緒がえぇ。

と言うので


誉治や、兄ちゃんや姉ちゃんが、父さんがえぇと言っているから、おまえまで父さんを選ばんでもえぇんだぞ。おまえはまだ小さいから、よう考えられんけぇ、タカが本当にええと思う方、好きな方について行ったらえぇんじゃけぇのう。


ぼくは本当に父さんがえぇ、父さんが好きじゃけぇ父さんと一緒に居たい。


この子どもたちの意思を確認し、四人の子を引き取り、別居する事になった。



実家である群馬県に妻は帰り、別居をする事になった。

末っ子の三男が小学校1年生の夏休みの時だった。

それから1年足らずで、妻は癌に侵された身体で逝去をした。



私は14歳になった6月の下旬に、1級上の増本を子分にしていたが、その和と母校の事務室荒らしをし(幻冬舎 白いカラス-獄道者ー少年期 に書いてある)施設(鑑別所-教護園-初等少年院=特等少年院に不良生押送になり)真面目に事故=規律違反=無く収容者生活を送っていれば、10ヶ月間で仮退院出来たが傷害事故等を繰り返し犯し、24ヶ月間を過ごし、通算28ヶ月間余を経て10月に仮退院になり社会復帰になる。



恐喝事件や傷害事件等で警察官に追われる身になり、ダチになっていた在日朝鮮人の昌山兄弟の伯父の経営する、塗装工場の千葉県市川市に11月下旬に行き、塗装工見習いとして働くが、新宿歌舞伎町のコマ劇場横の屋台に入りビールとおでんを頼み呑んでいると、一見それらしき者とすぐに判るヤクザ者に声をかけられ、勧誘をされ私はすぐに承諾をし、翌日に1人で約束のその屋台に行き、ヤクザにはならないと言う昌山兄弟の意思を話し伝え、一杯呑んでから中野坂下のビルに在る組事務所に行く。

声を掛けてきたのが、芝浦港会 紀(きの)博の 紀組 舎弟頭の坂間と若頭の安田と知る。

後に港会 阿部重作 から 碩上会 堀 会長の住吉連合会に代変わりをする。


翌日の午後に、三重県四日市市の近鉄裏の旅館二部屋を支部事務所にしている親分の所に、若衆らと5人で部屋住みになる。

地のテキヤの橋本組と一触即発の状況下にあるヤバイ地に、切り込み隊(鉄砲玉)として送り込まれた。


これらの事(経緯)は、少年院を仮退院をした後の続編 獄道者シリーズの作品として

龍王武ちゃんのアメブロ

獄道者-青春期編

に書いている。


16歳でヤクザ渡世に身を投じ、通算(少年院おも加えての施設の)獄中生活28年余を過ごし、後に縁有って古巣の市川市に戻り、住吉連合会 高梨興業 関東長者町一家総長 の処に身を寄せる。


16歳の時に市川市国府台の公園に在る、小泉八雲の有名な 里見八犬伝の小説に出てくる場所の、里見公園での抗争事件で、5人による犯行で二人を刺殺をし(全新聞社の社会面トップ、週刊誌、ラジオニュースに取り上げられ報道)、大報道をされた事件を犯し、他の四人の罪を1人で被り、(昌山コト曹三兄弟の次男 八奈は1年3年の執行猶予、三男 昌名は鑑別所パイ、長男 福生と、流星会副会長小林コト 崔 の二人は、暴行罪のみで1年6ヶ月の実刑判決になり)一躍有名人になり、私は13年の確定期刑期になるが、控訴をして殺人罪から傷害致死罪になって減刑になり、5年以上8年以下の不定期刑期になり、松本少年刑務所に服役をするが、不良囚として松本少年刑務所から小管-府中-小倉刑務所押送になり、8ヶ月間の仮釈放出所になる。

小倉で極道絡みの事件で、相手の面子を立てる為に地を去る事になり、新宿歌舞伎町に居を移す。

ここで単身殴り込みを掛け、ン十人の警察官に拳銃を抜き構えられ

 撃つぞ‼️撃つぞ‼️

の威嚇を受け、向かって行くが撃たれる事も無く、自刃をするも、後年に福生市に逮捕された時に私の命を救ってくれた⭕️暴担当係長に昇進していた内田(当時は留置場看守)刑事に再開をする。

18年の


取り計らいで、内破門処分になり、千葉県市川市を去り、名古屋の兄弟分を頼り、宇佐美英樹コト人斬り秀の異名で、名古屋では知らぬ者はいないほどの猛勇を馳せ、どの組からも一目も二目を置かれる男の 宇佐美組 若頭 の任に就くが、暫くして内部抗争になり、浜健一門一派は導友会から全て絶縁処分になった。


堅気になると言う宇佐美に足を揃え、私も堅気になり、横田基地で有名な福生市に妻子(長男と娘)4人で住み、舎弟(住吉連合会当時)の神田の働く建築ブロックの会社に紹介をされ、主にダンプカーの運転手として働く事になる。

関東には住吉連合会の知り合いらとよく出会い、諸諸の絡みに縛られて堅気を通す事が難しくなり、8月に故郷の山口県に妻子5人(妻のお腹には9月に産まれた3人目の子がいた)を伴い帰郷をする。

三男が誕生し、この6年後にこの末っ子が小学校1年の時に別居をする事になった。

四人の子の親として、これから男親の手一つで、孤軍奮闘し必死になって働き、子育てをして行く事になる。

     第一部完

     第二部に続く。