中村彝 なかむら つね

 

明治20年7月3日、5人兄弟の末っ子(三男)として

茨城県東茨城郡上市寺町七番屋敷(現在の水戸市)に生まれました。

父:中村順正 母:加治(よし)

 

1歳の誕生日を迎える前に父を亡くした彝は、

陸軍軍人であった長男の直を父代わりとし、その影響を受けて軍人を目指します。

11歳に迎えてすぐの9月8日に母を亡くします。

幼少時から幹部将校候補を養成するため名古屋に設けられた

大日本帝国陸軍の全寮制の教育機関である名古屋陸軍地方幼年学校を卒業しました。

そして東京の陸軍中央幼年学校に進学します。

しかし、その直後に肺結核と診断され、退校する事になります。

幹部将校を目指していた17歳の彝にとっては、どんな辛い気持ちでいたでしょう。

 

療養しながら絵を描くようになり、本格的に絵の道を目指す事を決めた彝は、

白馬会洋画研究所で絵を本格的に学び始めます。

 

彝は新宿中村屋裏のアトリエに移ります。

制作に熱中するあまり、食事もろくにとらなかった彝を心配して、

相馬夫妻は彼を食卓に招き、相馬家の家族の一員のように扱います。

大正3年、相馬家の長女 俊子をモデルとした「少女裸像」と

着衣の「小女」を描き、「小女」は文展の三等賞に入賞。

彝は俊子の優しさに次第に惹かれていきます。

しかし、二人の仲を相馬夫妻は、良しとはしなかったと思います。

次第に夫妻は俊子が彝に接近するのを妨げるようになってしまいます。

その後、彝は中村屋を離れ日暮里に移転、大正3年の暮れには大島に逃避します。

大正5年に俊子と再会するもその恋は実りませんでした。

その時のショックも相当なモノだったでしょう!

 

その後も点々をしますが、最終的に下落合のアトリエに落ち着きます。

傷心の彝は自炊生活や制作の疲れもでて、喀血が続き

大正13年12月24日 午後1時に結核のため永眠します。

37歳の若さでした。

 

彝の作品の中で、最も好きな作品です。

〔ワシリー・エロシェンコ氏の像〕

1920年9月

45センチ×43センチ

 

ワシリー・エロシェンコ氏は、友人の鶴田が見つけて来たモデルです。

彝と同じように新宿中村屋でお世話になっていた、ロシア出身の盲目の文筆家、音楽家です。そのエロシェンコ氏を鶴田と一緒に彝の画室で制作します。

この作品は第二回帝展に出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と評され、鶴田も初入選を果たしました。