昨日、桶川市内を車で移動している中での出来事。

BigBoyハンバーグレストランのサラダバーを求めてネットで
場所を調べて向かうことにした。

『あの場所ならわかるや…。』

そんなわけでナビ設定をしないで車を出した。

土曜日の夕方だったのでレストランの客入り状況なんかを気にしながら早く、自分仕立てのサラダを食べたい…の一つを浮かべていた。


西の空は夕焼けがかり何とも美しい光景にすっかり心を奪われていた矢先…。

『あれっ、橋が見える』

荒川を渡す橋の入り口が見えてきた。

次の交差点でなんとかしなければ橋を渡り隣町に行ってしまう。

ちなみに橋を渡り左折すると荒川岸にあるホンダエアポートがあるので久しぶりにそこに行くのもいいかな…とも思ったが僕の脳は『サラダ』を優先させた。

あるはずの店舗を見過ごし通過してしまったことが原因だったわけだが…😅

橋の手前の交差点を左折してU-turnをしようと農道らしき小道を道に任せて車を走らせた。

小道はどうやら行き止まりらしい…。

いや、待てょ。

何だろうあのキチンとした門構えは…。ゆっくり行き止まりを誘った門まで行ってみた。

『陸軍熊谷飛行学校桶川文教場』と書いてあった。

また、桶川飛行学校平和祈念館ともあった。




駐車場に車を止め中に入ってみることにした。

見るからに古い構造物群があり展示されているようだった。

案内を見るとその昔、かの第二次世界大戦の終盤に旧日本軍が敵国に壊滅的なダメージを与えるために急遽設立した飛行兵育成のための学校だそうだ。

陸軍熊谷飛行学校の文教場の1つがこの桶川の地にあったわけだ。

文教場は栃木、長野、福島、岐阜など数ヶ所にあり急ぎ飛行兵の育成を目的として設立されたらしい。

重々しい雰囲気が漂う校内は当時の姿を遺すよう整備されていて桶川市が管理している。

『兵舎棟』の内部展示に足を進めると当時、国のために青春を捧げた兵隊たちの魂を感じられずにはいられなかった。

何故なら就寝にしようしていた寝台や飛行服など数々の展示品とそのガイド文。

思い出したのは幼少時代に母とともに銀座や新橋に出掛けた際に道の片隅で物乞いをする軍服を着用していた人々。

日の丸と旭日旗のまえでアコーディオンを弾きながら寄付を募っていた軍服着用の人たち。

よく見ると片足が負傷していたり腕が失くなっていたり。

子供心に怖い思いをしていた。

あれ以来、アコーディオンは嫌いな楽器となる。

そんなことを脳裏に浮かあるところで全身が完全に立ち止まらせられて見いっていたコーナーがあった。

この学校出身で知覧より沖縄に向け飛び立ち英霊となられた埼玉県出身の飛行兵のことが記してあった。

数枚の白黒写真と学校時代に被っていた飛行服。その案内文と家族宛ての『遺書』


遺書には妻宛てのもと子供達宛ての2通あった。

国に御霊を捧げる勇ましい事柄と先立つことを謝罪すること。

そして自分無きあとも立派に生きて欲しいという願い事が記してあった。

20歳を後半にして国の政策で国のために戦い命を捧げる。

ぼくをしばらく動けなくさせた理由は、日本国がポツダム宣言受け入れ、玉音放送のあと3日後に出動命令が下り反対岸にあった滑走路から知覧に向けて飛び立ち『特攻』を見舞ったこと。

敗けを受け入れ終戦となったあとの出動命令。

上層部と現場での混乱があったと説明されていた。

ご本人、ご遺族の思いを勝手に想像したり自分に置き換えてみると涙無しではいられなかった。

道に迷いあの小道を進んできたばかりに貴重な体験をさせて頂きました。

飛行学校の敷地を門に向かい歩く自分の右肩に重くのし掛かった飛行兵の方々。

どうか、安らかにおやすみください。



mahalo lei…🍀

have a nice day, all…🌺💐