元弘元年(1331)第96代後醍醐天皇は朝廷の実権を取り戻すため、幕府を討とうと「元弘の乱」を起こしたが失敗し、隠岐(島根県)に流され。この時、北条時行(鎌倉幕府執権高時の二男・幼名亀寿丸)は叔父義家の計らいで、諏訪盛高の手により鎌倉から逃れ、信濃諏訪社の神宮らに匿われ諏訪地方に潜伏していた。『太平記』によれば6月いち早く京都から逃亡した北条与党らが、信濃へ結集して時行勢と合体したことが、中先代の挙兵に結び付いたという。

 一方、楠木正成など後醍醐天皇に味方する武士が各地で現れ、倒幕運動を始まった。幕府の実力者・北条高時は大軍で後醍醐天皇に味方する武士らの立てこもる千早城を攻めさせたが、丸太や大石を投げ落とすなど正成らの反撃にあい、幕府軍は約100日間釘づけとなった。京都では御家人・足利尊氏が天皇側に寝返り、元弘3年(1333)に京都にあった幕府拠点の「六波羅探題」を攻め滅ぼした。
 さらに関東では、新田荘(群馬県)を本拠にしていた御家人の新田義貞も、幕府から強引に年貢を取り立てられたことから、元弘3年5月倒幕の兵を挙げて鎌倉へ向けて進撃を始めた。守りの薄い稲村ケ崎を目指し潮の引いた時に一気に攻め込み、幕府の実力者・北条高時は北条一族を率いて戦ったが敗れて東勝寺に追い詰められて自害した。これにより源氏三代より北条氏へと続き約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

その頃信州では滋野一族が正慶2年(1333)3月28日(北朝年号)北御牧両羽神社に戦勝を祈念した海野・祢津・望月・矢沢家は、風雲急なる鎌倉に向かって応援のため急進した。塩田北条も一族あげて鎌倉幕府擁護のため出動している。両羽神社に集結した滋野一族は佐久郡内山の峠を越え、富岡街道の下仁田(現在の群馬県)を経て、鎌倉街道の嵐山(現在の埼玉県比企郡)を南下し約10日間の行程で到着し、直ちに鎌倉防衛軍の編成の中に組み込まれた。5月18日には、稲村ガ埼から侵攻した新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡する。そして三代約50年の塩田北条氏も運命を共にした。望月城は、主力部隊が鎌倉にいて留守の中、足利方の小笠原氏・市河氏の攻撃により破却されてしまった。 

 隠岐を脱出した後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡後建武元年(1334)新しい政治(建武の新政)を始めたが、武士よりも公家(朝廷に仕える貴族)を重く用いたため、武士の不満は高まった。信濃国内の武士も公平さを欠く恩賞に対し不満だらけだった。
元弘3年(1333)から「中先代の乱」へかけての対立であったが、この後20~30年間、あるいは100年後の延享12年(1440)の結城合戦まで、対立は続くことになる。

 建武2年7月13日以前に、諏訪頼重・大祝時継、滋野一族らは北条時行を奉じて挙兵している。幕府の御家人として北条氏に恩顧をもつ各地の武士たちは、幕府を再興しようという思いだった。12代海野小太郎幸春・13代海野小太郎幸重はじめ上田小県地方の武士たちも北条氏に心を寄せていた。20日ころには信濃を出て、23日には武蔵国に突入している。時行は共に兵を挙げた。

  時行は、鎌倉執権の北条氏つまり「先代」と室町幕府の足利尊氏つまり「後代」の両者の中間に生きた人物として、後世の人から「中先代」と呼ばれた。それが、この戦いが「中先代の乱」と呼ばれる所以である。                         埴生船山郷周辺の守護方と中先代与党との戦いの状況は『市河文書』の建武2年(1335)7月の「市河助房等着到状」と同年8月の「市河親宗軍忠状」に残る。           
両軍の軍勢は
  (中先代与党・南朝)            (守護方・北朝)
 北条時行                  信濃守小笠原貞宗
 諏訪三河入道照雲(頼重)           市河刑部大夫助房
 安芸権守諏訪時継(頼重の子)         同左衛門九郎倫房
 滋野一族                  同息子五郎長房
 保科弥三郎                 市河孫十郎親宗
 四宮左衛門太郎               村上の人々

 守護小笠原貞宗は、合戦を覚悟で船山郷に乗り込んで、7月13日に市河助房・倫房・親宗らが合流し、14日になって保科・四宮氏をはじめ中先代方が青沼に押し寄せ、それが千曲川を越えて篠ノ井・四宮河原に戦場が移り「更埴河原の戦い」となった。守護方が優位に立って、翌15日には、八幡の武水別神社東方の河原で、坂城町の西部方の横吹のすぐ北の福井(磯部のなかほど)の河原でも合戦が行われて、市河氏の総大将助房は討死した。市河氏は村上の人々の援軍を得て、この危機をまぬがれた。

 海野氏を含む諏訪・滋野一党・時行軍は各地で赫々(かっかく)たる戦果を上げ、戦いの手始めに守護小笠原貞宗の軍を破り、続いて小手指ケ原(埼玉県所沢市)にて足利軍を破り足利直義が守る鎌倉を攻め落とした。直義は鎌倉を逃亡する前に監禁していた後醍醐天皇の皇子、護良親王を殺害した。
 敗走した直義軍は、同年7月27日、これを食い止めようと、駿河の国手越河原(静岡市駿河区)に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻め上ってきた時行軍の勢いを止めることは出来ず、三河をめざし敗走した。危機を感じた足利一族の棟梁尊氏は、後醍醐天皇の裁可を得ず、救援のため兵を率いて東下、三河の国矢萩(岡崎市)にて直義軍と合流、8月9日に進撃してきた時行軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、これを破り、敗走する時行軍を追って、途中小夜の山中(掛川市)をさらに破り、14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。時行軍は、続いて高橋縄手・清見ケ関(清水市)と息つく間もなく攻めたてられ、防戦の甲斐なく時行軍は敗走した。
 17日箱根山、18日には時行軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所として、よく防ぐも敵せず、尊氏は19日には鎌倉を奪還した。

 諏訪頼重・時継は鎌倉の勝長寿寺で自害し、時行による鎌倉奪還は僅か20日間の夢に終わった。北条氏再興の目的はあえなく挫折し、北条時行は落ちて行方知らずとなった。
尊氏は、その後、後醍醐天皇の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻(ひるがえ)した。

 後醍醐天皇から足利尊氏を倒すように命じられた楠木正成は、足利尊氏と和解するよう提案したが、公家らの反対にあい新田義貞とともに湊川(兵庫県)へ向かうように命じられた。正成は戦死を覚悟していたという。湊川に陣を構えた楠木・新田軍に対して、尊氏軍は、水軍を利用して新田軍の背後から攻撃を仕掛けた。新田軍は逃げ道を断たれることを恐れて退却した。このため楠木軍は戦場で孤立し一族と共に自害した。
 その後、新田軍を破った尊氏は京都に入いり、室町幕府を開いた。後醍醐天皇は京都を脱出した後、吉野(奈良県)へ逃れ、京都の朝廷(北朝)に対抗するため南朝を開いた。室町幕府初代将軍・足利尊氏は、小笠原孫二郎政宗を信濃国の守護に改めて任命した。
 観応2年(1351)の2月から、しばらくの間、信濃は平穏を取り戻したかに見えたが、足利尊氏と弟の直義兄弟の関係が悪化しし、6~7月から信濃でも、また激しい合戦が始まった。
 7月足利直義と一緒に都を出た諏訪信濃守は、敦賀にとどまった直義の一行から別れて、先に信濃に戻ったことで、祢津氏や香坂美濃介達も勢いを得たので、善光寺の戦いで守勢になった尊氏方が須坂市米子の山に逃れたところを、さらに追撃した。
 上田小県地方にとって初めての合戦が、12月10日尾野山で行われた。尾野山は上田市丸子の依田と小牧の間で小牧山の東部、尾野山集落の中ほどの下池の西側に、今も中尾の字が残っている。ここ尾野山に上ると北方の眼下に海野氏所領の岩下や深井が広がり、東北の方向に祢津小次郎の本領祢津郷が手に取るように見える。
 こんな近くまで尊氏方に攻め寄せられ、自分の所領が危機にさらされた祢津氏が、一生懸命になって防戦したことは当然で、諏訪信濃守直頼も駆けつけて大合戦が繰り広げられた。

 このことが半世紀余りにおよぶ南北朝内乱の引き金となったが、諏訪及び海野氏を含む滋野一族が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱に影響を与えたという。海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーだったことは特筆しておくべきであろ。
 また海野氏の一部は安倍(静岡県)の奥に逃れ、安倍城を拠点とする南朝方の狩野貞長に従ったとも考えられる。