承久元年(1219)1月27日に八幡宮を参拝し石段を下り、大銀杏から公暁がおどり出て実朝に斬りつけたが、そばにいた仲章を義時と間違えて実朝(28歳)の首が切られた。
この日は珍しく雪が降っていた。縁側で一首「出ていなば 主亡き宿と なりぬとも 軒場の梅よ 春を忘るな」北条義時
 承久3年(1221)、10代海野小太郎幸氏49歳は、幕府方(執権北条泰時)の将として「承久の乱」に美濃大井戸で参戦した。
 平氏の滅亡後、源頼朝と源義経が対立した。義経が平泉(岩手県)の奥州藤原氏のもとに逃れると、頼朝は義経・奥州藤原氏を攻め滅ぼした。日本初の本格的な武家政権『鎌倉幕府』を開かれた。頼朝の死後、頼朝の妻・北条政子の実家・北条家が幕府の実権を握り、執権(将軍を助ける幕府の最高職)の地位を独占した。
 一方、幕府を倒して政権を取りもどそうと考えた後鳥羽上皇が兵を挙げ、御家人(幕府に仕える武士)たちは朝廷の敵にされて混乱した。
この時尼将軍(北条政子)は「武士の政権を開いた頼朝様に感謝し、幕府を守るために戦うべき」と御家人たちの心を一つにまとめた。この頃幸氏は幕府重臣として重要な事項の謀議に参加している。
 幕府は北条泰時らを指揮官に任命し京都に攻め上らせた。味方する武士が増え19万騎の大軍になった幕府軍は、宇治・瀬田の戦いで朝廷軍を撃破して京都を占拠した。敗れた後鳥羽上皇は、隠岐(島根県)に追放され、幕府は京都には朝廷を監視する役所「六波羅探題」を置いれた。
 
 香坂宗清(初代香坂家)も戦功により鎌倉六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)に仕え文応元年(1260)信州新町の牧之島の地を賜わった。その後、信濃守護守・小笠原貞宗の命により、総大将・村上信貞率いる市河経助・高梨五郎などが、牧城を攻めたが天然の要害にあり落城を免れた。それ以降の戦乱でも落ちることはなかったという。

 10代海野小太郎幸氏は源頼朝より庄を与えられ、上野国三国の庄(長野原町・嬬恋村)の地頭だった。このことから滋野姓海野氏の勢力は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。
源頼朝の浅間の狩にあたりに『大石寺本』では〈信濃と上野の境なる碓井山を越え給い、沓掛の宿に着き給符、その夜は大井・伴野・志賀・置田・内村の人々ぞ守りける。次の日鎌倉殿、三原へ御越あり、離山の腰を通らせ給う、その折、「節狐の啼きて走り通りければ、梶原聞きも敢す」と口ずさみけり。信濃の国の住人海野小太郎幸氏「忍びても夜こそこうとはいふべきに」と付けたりければ、人々感じ合はれける云々〉海野小太郎は梶原とともに褒美の品々を頂戴している。

このことで海野幸氏は、甲斐の武田光蓮(武田信光)との国境の長倉保(軽井沢町)との領地争いを行ったとあり、幸氏の領地は、武田氏の領地に接するほど広かったのであろうか。
 海野氏一族が上野国に進出し三原庄をも領有していたことが注目される。その一部は下屋・鎌原・羽尾・大戸氏のように西上野吾妻郡地域にも進出していた。
 ともあれ武田方との領地争いは幕府の裁定で海野方の勝訴で治まった。そのことは『吾妻鏡』に記されている。
 甲斐の武田家では内紛が起きて武田光蓮が二男信忠を勘当した。
 海野氏は、甲斐国に本拠をもつ武田氏と犬猿のなかの時代を過ごすこととなる。
 これは、仁治2年(1241)3月のこととされている。この時、幸氏は69歳であった。

海野幸氏は長生きで活躍していたことになる。この時期の海野氏の支配地域は、海野氏連合体全体で江戸時代の石高に換算して5~7万石程度と推定される。(信濃全域で55万石と称される)海野氏の最盛期であった。
 海野氏は、本領海野の地を開発領主であり、その地は海野庄と呼ばれた。領家は藤原摂関家だった。12世紀初め関白忠実の代より南北朝時代の14世紀中葉まで藤原氏嫡流(近衛家)に伝領されたことが考証されている。海野氏は摂関政治の全盛時代より摂関家に従属し、その荘官として勢力を蓄えていたと見られる。
 10代海野小太郎幸氏の活躍はすでに「〈十三〉海野氏中興の祖…」に紹介している通り『吾妻鏡』に多く記録され、特に嘉禎3年(1237)8月北条泰時の嫡男・北条時頼に鶴岡八幡宮における流鏑馬で騎射の技を披露し、見る者たちからは「弓馬の宗家」と讃えられ天下八名手の一に数えられた。また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称され、以後は将軍家の御弓始・放生会の流鏑馬・三浦の小笠懸などの催しのたびに、海野小太郎幸氏の名がみられる。
 永仁元年(1293)鎌倉大地震が起きて死者2万余人とも言われている。