日本人のグラフィティ コンフィクション東京人の昭和 こんな昭和もありました 年貢を納めた団塊達 | 60yonezawaのブログ

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ある日の夜11時頃、大学の実験室にて、、、
四年生や五年生は、卒業研究(そつけん)にいそしんでいます。三年の夏前くらいから、実験準備のための講座が開かれ、それと同時

に本実験の前の予備実験が始ります。出来の良い奴は予備と言いながら、レベルの高い本実験みたいなことやってます。

教授もそいつにへばりついて指導に当たってます。俺なんかついでです。次第に脂が乗ってきて実験室に寝袋もって泊まり込みになります。なぜ泊まり込みになるかと言えば、機械のせいなのです。朝実験室でスイッチオンにしても、2時間くらいは使えないのです。電圧電流などにばらつきが生じ、正確に計測、読み取りが出来ないのです。ですから一区切り付くまではスイッチを切りたくないのです。スイッチオンのまま帰宅するわけにはいきませんから、、、

 

今日は泊まりに入って三日目、学食と定食屋の繰り返し、ろくな物食ってないし、飲平は冷蔵庫の中にウイスキーやら缶ビールやら冷やして、飲みながら実験してます。俺は飲めないのでインスタントコーヒーばっか、中には彼女に差し入れに来させる豪傑もいます。

 

深夜に見たこと無い綺麗な女の子がショートケーキに紅茶出してくれて ”ありゃ誰だ”眼と鼻が冷めちゃって、杉田君の彼女だとわかり

”あいつやるなー”、、、急に帰りたくなりました。”だけど教授(坂下先生)もタフだよな、良い年だろ、一緒に徹夜してるぜ、着替え持って来てんのかな、もうちょっとガンバロ、、、”

 

近所の風呂屋には行ってますが、そろそろパンツも限界、”臭くねーかな、明日帰ろう”不出来は不出来なりに根(こん)を詰め実験に没頭していると、教授の前の電話が鳴りました、、、本部の守衛さんからです。
”米澤さんいませんか 教授が受けて ”よね、電話だ、家から、なんかやったのか”
俺”五年生なのに信用ねーなー” 口には出しません ”はい、すいません”

受話器の向こうからお袋の声、第一声が
”お前、本当にいたんだ、ゴメン”がちゃん

切れちゃいました。どうせどっか遊び歩いてると思ってたようです。あれ程
”実験で学校に泊まりになるから”と言ってあったのに、、、
”お袋め、俺だってたまには勉強すんだ!”、、、

 

この時代、親が子供の学校、特に大学に顔出したり教授に挨拶しに来たり、電話したりは、子供の不名誉、みっともない行為、

と思う人も数多く、大学生の息子や娘には口を出さないのが、親としての道、そう考える人が多かったのです。

 

ちなみに私は今でもそう思ってます、、、在学中の息子や娘の大学には、卒業式や入学式のどちらか一度位は顔を出しますが、

合間に、研究室に連絡する等と言うことは考えも及ばないことだったのです。

この電話一本で、母親はしばらく罪悪感にさいなまれ、俺の顔見りゃ謝ってました、、、、
後に言ってました。高校の時、新幹線工事に連れてかれて三日間もいなかったのに、気付かなかったのがやはり罪悪感になってたんだと、、、”本当に気づいてなかったんだ”!、、、
            

日本人のグラフィティー
        コンフィクション 東京人の昭和(こんな昭和も有りました)  第十二章         未知に向かって飛べ  1970大阪万博

1969夏、人間が初めて月面を歩きました。テレビ中継され世界中がかたずを飲んで注目する中を、

見事成功し、石ころをお土産に持って帰りました。
この石ころ、翌1970春からの大阪万博の、目玉になったのです。大盛況、月の石の効果でした。

これ以降、味をしめた知事さん達は、夢よ再び、と、何かにつけ博覧会を開催するようになりました。

殆ど惨憺(さんたん)たる結果になりました。柳の下にどじょうは居なかった、のです。

 

この頃日本は、高度成長、最後で最大の山場、万博のお祭り騒ぎも手伝って、まさに繁栄の絶頂を迎えていたのです。

車、が飛ぶように売れ、注文してから、一ヶ月も待たされるのも珍しくはありませんでした。

 

前半の山場、東京オリンピックの時は、日本中の殆どの人は、買ったばかりのテレビで観戦したのです。しかし万博は違いました。

まあスポーツならともかく、博覧会をテレビで見ても殆ど解らないし面白くはありません。これは皆さん同感でしょう。

それともう一つ経済上の重要なポイントは、この時点(1970年)では、未だ余勢で売れてはいますが、テレビは概ね、各家庭に行き渡っていたのです。そこへ万博開催、実にタイムリーでした。万博を見るためには、テレビでは駄目なのです。面白くないのです。こればかりはやはり実際に行ってみなくては駄目なのです。

高度成長最後の推進役、マイカーの登場になりました。
オリンピックと違い、万博は半年間もの間、開催されるのです。万博見物のためにマイカーを購入した家庭が、どれ程多かったことか。

簡単に言えば、月の石を餌に、マイカーを売りつけた事になったのです。大変な経済効果になりました。

なにしろ車はテレビよりはるかに高いのです。

 

オリンピックから、この万博まで、マイカーは物凄く売れたのですが、それでも都会の家庭に集中していたのです。それも大学生の男の子がいる家庭、が圧倒的に多かったのです。一部女子大生も、、、従ってお金を出すのは親爺で、転がすのはドラ息子、と言うパターンが圧倒的でした。東京や大阪、と言った大都市にはドラ息子や一部ドラ娘が大勢いたことになります。

          そうです彼、彼女等こそが後の日本の主役、団塊の世代、だったのです。

 

従って私の考えでは、1964-1970の初頭までは、マイカーの隠れブームの時代と言えると思うのです。この6年程の間、マイカーは、必需品と言うよりも、ファッションであり、ステータスだったのです。しかし万博以降は、正に家庭の必需品と言っても良い状態になったのでした。ですから都会だけでなく地方の村々でも飛ぶように売れたのです。正に飛ぶように

 

             オリンピックで向上し、万博で堕落した、日本の西洋料理
日本人は戦後初めて、一人でも多くの外国人の訪日を心から願いました。オリンピックを開催するほどに復興した日本の姿を見て貰いたくて。それまで日本人が目にする外国人とは、殆どアメリカの軍人、しかも兵隊がほとんどでした。戦争に敗れ、心ならずも、迎え入れなければならなかった、占領軍の残滓(ざんし)、と誰もが思っていたのです。

 

本当の意味でのお客様、としての外国人、特に、明治以来の憧れ、としての欧米人、の来日を心待ちしていたのです。日本人は白人には滅法(めつぽう)弱いのです。明治以来の伝統、等と言えば怒る人もいるかも知れませんが。なんで戦争なんかしたのでしょう。
ひがみ根性からでしょうか、、、話がそれました。

 

大勢の外国人を迎える事になった、日本の料理界は、期待と緊張のなかで準備に余念がありませんでした。
なにしろ今まで偉そうにはしていても、何も知らない日本人にしか食べさせた事しかなかった、日本のコック達。。。能書きは垂れても、実際は行った事など一度もない、フランスやドイツの料理を、本場の人間に食わすのですから。しかも相手はただの観光客ばかりではなく、オリンピック選手や役員、大会関係者、プレス、通訳、外交官、etcetc。いわば全員VIP。食い物が変で、試合に負けた、等とは絶対に言わせる訳にはいかないのです。

 

選手村のコック達などは、何年も前から、英会話、フランス語、ドイツ語、イタリア、スペインetc,特に英語は必修となったのです。日本全国からかなりの人数が集められました。そして専門料理分野の読み書き。ともかく机に向かう勉強があまり好きでない人の多い職人の世界が、一転して、大学受験のような様相になりました。さらに調理技術も、本場ヨーロッパの家庭料理に近づけるため、あらゆる努力を払ったのです。

           料理人、意地と気合いで格好付け、日の丸背負って飯を作るかな、、、

例えば、お客の殆ど全部が日本人で、外国人と言ってもアメリカの兵隊位しか居なかった当時の日本のレストランでは、料理の行程省略、コスト低減のために、隠し味と称して、醤油や、味噌を、特に醤油は多かったのですが、デミグラスソースやフォンにこっそりと入れてしまいます。5日から一週間かかるソースが2日程で出来上がるのです。
これで日本人は殆ど誤魔化されます。いやむしろ、これを喜ぶお客さんが多かったのです。カレーも同じ事です。

しかし隠し味と言っても、隠せるのはあくまで日本人と他の一部アジア人だけ。味噌や醤油を普段から食べている人は誤魔化せるのです。
欧米人は無理なのです。今なら欧米人も食べるでしょう。しかしこの当時は食べませんでした。大抵顔をしかめて。。。。
選手村では醤油や味噌を使ったフランス料理など絶対に出せません。また同じレアでも、刺身を食べ付けている日本人のレアと、肉の怖さを理解しているヨーロッパ人のレアは違うのです。これもコック達は大抵初体験でした。

 

ともかく紆余曲折は有りましたが、日本人の名誉、の為と言うはっきりとした目的意識を持って、コック達は一丸となってスクラムを組んだのでした。そこには誰一人として、金儲けなどを考える輩はいなかったのです、、

 

こうして日本人の名誉と世界の一員として、大いなる向上を果たした、日本の西洋料理界。東京や大阪と言った大都市では洋物好きのお客の多いこともあって、正に本当の意味での、レストラン黄金時代を迎えるのです。

 

しかし万博の時は違いました。会場に行くのは、殆ど日本人、なにしろテレビでは見物できませんから。期間も長いのでオリンピックの時とは比較にならない大人数なのです。オリンピックの時には、どこまで本格的に手をかけるか、が腕の見せ所でしたが、この時は違いました。

どこまで手を抜けるか、を競い合ったのです。調理器具もこの6年間で格段の進歩をしました。電子レンジ、冷凍ストッカー、高速オーブン、新型ミキサー、スライサー、フライヤー,ETCETC、と言った便利な道具のせいもありますが、本当のところは。。。
来客の殆どが、日本人、しかも買いたてのマイカーで地方(田舎)からやって来る日本人。迎える側としては、決してオリンピックの時のようなVIPとは思っていません。

 

しかもあれから6年、日本人の生活もそろそろ欧米人並みになっており、ぴかぴかのマイカーでやって来る若者達や、ノボリを立ててやって来る観光バスの団体客は、あくまでも金儲けの対象でありました。

決して自分達の料理センス、調理技術、を誇示して存在感をアッピールする相手では無かったのです。私も一度は行きましたが、本当にひどい物を高い値段で食わしてました。こうして上手に?手を抜くことを覚えた、料理人達は、万博終了後は、高度成長最中、人手不足の極みにあった、街場のニューヨークフレンチレストランを、蝕む先兵となったのです。そしてやがて来るファミレス時代の為に、個人レストランの幕引き役を務めたのです。

金取って、インスタントの試食会、幾ら食い物ひどくても、金髪青い目スンナリあんよ、笑顔たっぷり持ってくりゃ、どんな物でも食ってやらー、、、

 

日本中が変わってしまったのでしょう。精神面でもオリンピックの頃までと、大きな違いが出てきました。オリンピックの時は、例えテレビ観戦でも、日本中が感動と、共感、つまり大変な盛り上がりを見せたのです。日露戦争や第一次大戦の時の、欧米人に対する日本人の感情や態度、あの時と同じ気持ちになったのでしょう。

競い合い、戦うべき相手、戦争ならば命のやりとりをする相手、いわば好敵手、強敵、を憎むよりも尊敬してしまうような気持ち、正に武士道や騎士道に共通する、精神構造でした。謙遜と謙譲の精神。こういった物が東京オリンピックの頃までは、日本人の殆どに、まだ残っていたのです。敗戦以来、これ程共通の思いを胸にしたのは初めてでしょう。

 

ですが万博は様子が違いました。皆夢中になってマイカーを購入して見に行くのですが、感激、感動して帰ってくる奴は一人も知りません。白けて、疲れて帰ってくるのです。あの広い会場を全部丁寧に見た奴など一人も知りません。無論私もその一人です。わざわざ行ったのに、、、結局万博見物はそこそこにして、関西方面の観光地に行ってしまう人が殆どでした。

 

石ころを、これ見よがしに飾り付け、行列させてぱくりやがる、元祖公認催眠商法か

 

物が豊かになると、感動、感激する物が少なくなると言うこと、それだけ日本人の生活も、豊かになったと言うことでしょう。
替わりに日本精神、武士道、謙譲謙遜、等という、忍耐を前提にした、我が国独特の精神構造は、万博の頃には見当たらなくなったのでした。

そう言えば、三島由紀夫さんの自決も、万博の直後でしたっけ。物質文明に毒され行く日本民族に、警鐘をならすために、、、豊かになって、充実した人生を目標に頑張ってきたのに、逆に世の中つまらないことばかりが目に付くようになってきたのでした。

 

この頃になると、ビートルズは新曲を歌わなくなりました。相変わらず凄い人気でしたが、ラジオからは既に知っている曲ばかりが聞こえてきたのです。もはや解散を覚悟していたのでしょう。前年あたりからサイモン&ガーファンクルがトップに躍り出て来ます。またフォークソングもまだまだ盛んで、PPM、ブラザース4、等の旧勢力が相変わらず人気を保っていますが、パパス&ママス、ニュークリスティミンストレルズ、イーグルス、ビージーズ、等の新興勢力が台頭してきました。60年代までのシンガー達が、天然自然と友情、男女の愛、正義等を歌ったのに比べ、70年代以降のシンガー達は、友情より家族愛、正義より平和、をより強調して歌ったのです。
           

                                日本人のグラフィティー
        コンフィクション 東京人の昭和(こんな昭和もありました)  

第十三章      年貢を納めるとき、 家族、福祉、平和、の時代の幕開け

 

この頃まで、他人から ”貴方にとって一番大切な物は何か” と聞かれて、家族” と答える人は殆どいませんでした。大抵は社会とか、友人とか、自由、正義等という答えが返ってきたのです。家族が一番大切等と言う人は、世の中や組織、グループの事を考えない、身勝手な奴、と誰でも真剣に考えていたのです。
しかし、この辺りから、”家族が一番大切”と答える人が目立つ様になってきました。

 

移民大国アメリカ、血の繋がりの無い、赤の他人の集まったアメリカ、を頂点とする、社会構造、企業や大学、国家や政治、と言ったあらゆる事に、庶民が不信感を抱き始めたのです。従って、アメリカを連想させる文化も又衰退の道をたどるのです。

”大切な、人は誰か”と問われれば、”家族”と答える奴ばかり、結局女房と子供だけ、亭主は達者で旅かいな、、、、、、

ミュージカル映画も60年代末期の、チキチキバンバンが最後のヒットとなり、これ以降何作か作られましたが、殆どヒットしなくなりました。血なまぐさいベトナムのニュースが毎日報道され、歌や踊りのミュージカルどころでは、無くなっていたのです。

景気の方は絶好調でしたが、一部の意識下には陰りがが見え始めました。米軍による大量虐殺が明るみにされ、解決の糸口さえ見えない、長引くベトナム戦の影響でした。

 

日本大学のずさん経理、20億円もの使途不明金追求に端を発した学園紛争に、60年代末期から、ベトナム反戦、日米安保反対の旗印が加わったのです。日本中に飛び火し、赤軍派というテロ集団を生み出し、血なまぐさい事件の数々を引き起こし、余韻も冷めずにただ恐れおののいた、その時が70年代の幕開けでした。

       

                 願わくば、来るなと願った卒業式を、無理に祝うなよ、万博め!、、、

                          団塊の世代羽ばたく
この1970年と言う年は、戦後生まれの団塊の世代と言われている人々の、第二期、一番数の多い世代が大学を卒業し、社会人になった年でもあるのです。
彼等は青春と言われる殆ど全部の時代を、高度成長の中で過ごしました。苦労はせずに夢が語れ、社会に出れば直ぐにエリートコースだと、思い込んでいたような人達なのです。努力、忍耐、苦労、こんな言葉を知らずに過ごしていますから、この数年後のオイルショック不況の時には、正に血の涙を流させられたのです。

 

       ゴキブリは、冬の時代も生きのびる、涙ながして痛さをこらえ、心の埃を誇りに変えて

もっともこの経験のおかげで、あのひ弱な、坊ちゃんが、滅法打たれ強い、企業戦士へと変貌し、後のバブル時代の尖兵となるのですが。
60年代までの、生活感の無い歌は流行らなくなり、その為、グループサウンズや加山雄三さんはスターの座を降りることになります。替わりに和製フォーク、いわゆる神田川に代表される、四畳半フォークが大流行します。
レストランも万博以降乱立し、過当競争の時代に入り、ピザもそろそろ、一番よく売れる普通の商品になったのです。認知されて6-7年、あちこちで食べられるようになって、3-4年が経ちました。

         ”ファミレスの、のぼりの文句はピザ祭り、けちなサラダが付いてくる”、、、

 

この頃、半年ー1年後にファミレスを事業化する事になる人達は、万博参りとアメリカ詣でを繰り返していたのです。

団塊の世代達は社会人となって活躍を始めますが、宴会でフォークソングを歌うわけにはいかず、そろそろ腹も出始め、IVYファッションは着れなくなり、ろくに休みもないため、映画も見れず、先輩諸氏には、赤ちょうちん、ばかりに連れて行かれるのです。

 

”たまにはレストランで飲みましょうよ”等と言えば、”バカ、気取るんじゃネー”と怒られる始末。おかげでレストランはご無沙汰になりました。行きつけだったレストランのマスターも、そろそろ俺の事なんか、忘れてしまったことでしょう。

 

2-3年が過ぎ、後輩も多数できました。そいつ等をかつての行きつけのレストランに、連れていって、格好良いところを見せようとした時には、店が無くなっていました。既にファミレスの時代になっていたのでした。

 

そろそろ適齢期になった彼等は、長年来の彼女、あるいは友人達も全く知らなかった、新しい彼女とゴールインする者が続々と出てきます。独身時代の気楽で楽しい事は、正に夢のまた夢でした。

 

     ”これがまあ、終(つい)の出会いかゴールイン、団塊年貢の納め時、そのうち懐かしむ、かつての出会いを”、、、かも。

田中角栄首相の列島改造案で、またその直後の第一次オイルショックで、狂乱物価が始まったのです。トイレットペーパーが一本千円になりました。
物心付いた時から、生まれた時から、アメリカンオールデイズで包まれ、社会や親や、学校、その他諸々と言う保護者に囲まれ、自分が保護者になる直前まで、一人で歩いた事の無い青年達が、独り立ちした途端に、新しい時代が始まってしまったのでした。

 

こうして歌に代表される、オールデイズ的な事物は、急速に忘れ去られていったのです。
最後に、正に最後に、典型的オールデイズがヒットしました。まるで重病人の最後の呻きの様に。

1973年、第一次オイルショックの前年、翌年に迫った津波の様な激動を、微塵も感じさせないストーリーで、社会正義を前面に出し、それが為に、愛し合う男女が決別をする、と言う内容です。

 

ロバートレッドフォード、バーブラストライザンド、主演の映画、追憶、です。同名のテーマソングをやはりバーブラストライザンドが歌い大ヒットしたのです。

誰もが、病んだとは言え、大国アメリカの時代は、まだまだ続くと思っていました。 
まさかアメリカを葬送するレクイエムであるとは、この時は誰も思いませんでした。

                  1975年、ベトナム戦終結。
前年のオイルショックがとどめとなり、アメリカはベトナムから去りました。後世に膨大な量の問題を残したまま。アメリカ史上初の敗北でした。フロンティアスピリッツの旗は踏みにじられました。彼は目を開けなくなりました。

臨終の耳元で、美しく安らかに聞いた祈り、それは皮肉にも、バーブラストライザンドの歌う、追憶(The way we are)でした。
”想い出よ、心の片隅の想い出よ、不思議な水色の想い出よ、それは私達のあるいた道、想い出よ、記憶の片隅に残るほほ笑ましい思い出も、破き捨てられた絵のよう、、、、、、、”

 

まるで嘗てのアメリカの栄光を称え、懐かしむように。。。。。。。締めくくりのラップです

団塊が、生まれた時に始まった、アメリカずくしの新時代、生まれて初めて眼にした物が、右や左のアメリカン、ジッポレイバンリーバイス、コークマルボロハリスガム、ギブミーチョコとパンパンと、ビュイックシボレーキャデラック、シナトラサッチモナッキンコール、そんなディーノに憧れて、ジェリールイスかモンローか、見上げる空にゃムーンリバー、ジェームスディーンはつかの間で、イギリスあたりじゃエリザベス、アメリカだってエリザベス、エルビストレビス赤キャベツ、フォークでしみじみシジミ食い、アイビーヒッピー、ハッピーデイ、ジョニ黒のらくろホワイトホース、昔のアホはオールドパー、ペリカンあおかんパインカン、ベトナムナムルのどんぶりで、ベトコンダイコン中華丼、タコが食いますタコライス、イカは食えないいかさまサンマ、イカレタ団塊嘘涙

 

 文中の個人名は全て仮称、実名ではありません、一カ所だけ、我が恩師の愛称、メパチは、実際に呼ばれていたものですがあくまでも愛称、本名ではありません、、、。end