日本人のグラフィティ コンフィクション東京人の昭和 こんな昭和もありました 香港シャツ | 60yonezawaのブログ

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ホンコン(香港)シャツ登場

またこの頃までは半袖シャツにネクタイをする習慣は無く、盛夏にはサラリーマン達は、白の開襟シャツが普通でした。開襟ですからノーネクタイです。胸に大きめのポケットが付いていて、定期や手帳を入れて仕事をしていたのです。ですから両胸にポケットの有る物、も多かったのです。

ここへテレビや映画のスターが着ていた、ネクタイのできる半袖ワイシャツが登場しました。


ハリウッド映画の主人公達、グレゴリーペック、ジョージペパード、ジェームススチュアート達の洒落たスタイルを、またやっと手に入れた白黒テレビのアメリカンドラマ、サーフサイド6のクーキー役エドバーンズやサンセット77のトロイドナヒュー等をうっとり見ており、彼等のスマートなサマースタイルに憧れていたのです。


(上図 香港シャツ 当時半袖でネクタイの出来るシャツは日本には無く、サラリーマン達の憧れのス タイルだった、、、マセガキ中学生はいち早く買い求めた、ただしネクタイはなし、今になればどうと 言うことのない半袖ワイシャツ)


これに目を付けた東レーと帝人の二社の同時発売です。どちらかがセミスリーブシャツ、どちらかがホンコンシャツと名付けて売り出したのです。どちらがどちらを売り出したかは忘れましたが、結局ホンコンシャツの名が受け入れられました。どちらも凄まじい売れ行きになり、たちまち半袖開襟シャツを駆逐してしまいました。


以来21世紀の昨今に至るまで、何かにつけて夏でもネクタイが定番になり、やっとこの頃、温暖化の影響で2006頃から、クールビズのかけ声の下、ノーネクタイが許容されてきました。でも上着付きです。なぜ本物のクールビズ、開襟シャツを奨励しないのでしょうか。余談です、、、


中学生、ズボンの裾をスリムにし、バッシュー踏んづけホンコンシャツの、胸のポッケにゃ銀の櫛(くし)、オンリーユーは貴女だけ、煙がやけに目にしみる、二人でドドンパ夢ならば、やけくそみんなでロコモーション、、、フォークダンスはあほくさい、創作ダンスはくそ喰らえ、、、


青春の謀り事

秋です、中二の秋”秋の長雨つかの間晴れて、水のたまりに影映す”、、、

長雨で校庭にかなり大きな水たまりが出来てます。毎度のことなのです。水たまりを避けるように歩行用のスノコ板が間隔を置いて校門から校舎まで置いてあります。生徒達はその上を、スノコの境目は軽く飛び越えて歩くのです。ひらめきました、、、、

                 芽生えた中学生達ドキドキ

悪仲間数人と、スノコ板を水たまりの上に移すのです。びしょびしょになってやってると見とがめられました、同級(二年)の超秀才田中君に、、、彼は先生も認める秀才で、今すぐ西高(超優秀都立校)受験しても確実に受かる、とまで言われていたほどの秀才です、ただ体育の実技はあまり得意ではなく、おとなしくて冗談も言わない、何よりお洒落には無頓着で、当時にしてはどちらかと言えば暗い感じの人だったのです。


女の子も彼のことは眼中にないらしく、持てるだ持てないだ、格好良いだ悪いだ、の外、およそミーハーとは縁の無い、まじめな勉強一筋の人だったのです。

そんな田中君が

”お前等何やってんだよー、そんな事すんなよー”


悪共
”お前ねー、間違ってここ歩く奴いたらアブネーダロー、お前も手伝えよ、、、”


田中君
”うん”

手伝わしちゃいました。わざわざ水の中、間違えて歩く奴なんかいるわけ無いのですが、、、
校舎に近いところだけ、板と板の間隔をもっと広くします。終わってみれば、置いたと言うより、浮かんでると言う感じです。


悪共
お前も来いよ”

手引っ張って一緒に連れて行きます、日頃友達付き合いなど誰ともしたことのない彼は、とまどいながらも結構嬉しそうに ”ウン俺も行く” 一時の仲間になったのでした、、、

この状態でスノコ板が良く見える二階の廊下の窓から顔を出して待つのです。14人の悪共に一人だけ、善人が仲間に加わったのです。田中君はなんのことかは解らずに一緒に窓から顔を出したのです。二カ所の窓から15人が顔を出すわけですから、水族館の穴子の状態になります。


誰かが田中君に”お前マバタキすんなよー” 田中君”ウン”、、、

やがてお目当ての加世子ちゃんが来ました。スノコの境目で困っていますがやがて、、、
ちょこっと背を反らし、勢いを付けてジャンプ!、、、ほんの一瞬、まばたきにも足りないほどの瞬間、水に映ります。二階の窓から顔出してる穴子みたいなバカ共から歓声が上がるのでした。あっという間に水たまりは、シャワシャワシャワ!波打ち、もうおしまい、この手は三回目にはもう通用しなくなりました。



ちなみにバカ穴子共、田中君も一緒にバケツ持って廊下に立たされました。もっともバケツは1個しか有りませんからタイムを計って5分ごとに隣の奴に回すのです、、、結局バケツリレー、、、、別のクラスの奴が、”あいつ等、なにやってんだ?”、、、、、


卒業後久しぶりに悪仲間と再会
”田中 西高いったんだろ”

別の奴が
”ダメだったらしいよ”


”ふーん”

他の奴が
”なんか急にお洒落になったって誰か言ってたなー”


東京ではこの時代(1960年頃)高校進学はごく普通の事ですから、受験勉強に悩まされながらも、お洒落だけは忘れずに、すかしていたのです。殆ど全部の中学生達が、、、。
アメリカの影響は若者ほど大きく、無論ホンコンシャツもあっという間に男の子の定番スタイルになりました。ただしネクタイはまだ無しですが、、、、


                  罪と罰

さんざん悪さを尽くす子供達ですが、私の知る限りでは、事後に隠蔽工作をする奴だけは知りません。ですからすぐにばれるのです。ばれたらしらばっくれずに素直に謝り、覚悟を決め、それなりの罰を受けるのです。立たされたり、頭はたかれたり、校庭走らされたり、バケツ持たされたり、全部、ばれたその日一日、で決着します。


皆は、ばれた時の覚悟はいつでもしてました、被害者や目撃者に向かって”言うなよ、言ったら後で覚えてろ” 等とはけして言いませんでした、、、素直にその事の非を認め、謝った上で、罰を受けるのでした。非を認め謝ったのですから、決して同じ悪さは、二度としません、、、別の悪さを考えるのです、、


いたずらは子供の最大の学習、後には文化になるのです、、、へへ。ここに向上心が生まれ、さらなる進歩が有るのです、、、?


また同じ悪さを、繰り返さないと言うことが、イジメがなかった最大の理由でしょう。けんかはしょっちゅうでしたが。受けなくなって皆が嫌な顔始めたらすぐに取りやめです。次の手を考えるのです。同じ奴をいつまでもかまっていても、飽きちゃいますから、、、


昨今のように一発芸で何年もメシを食う奴は一人もいませんでした。笑わせる事はしょっちゅうしてましたが、笑われる事だけはしてないつもりです。つまりこのいたずらは、子供のお洒落心、自己主張の産物だったのです、、、、

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       コンフィクション 東京人の昭和(こんな昭和もありました)
             
第六章 素敵な肉欲

肉はゆとりのバロメーター 1957(昭32)頃
この頃になると、庶民の口にも、ついこの間まで夢に見ていた肉が、毎日と言う訳には行きませんが、頻繁に食卓を飾ることになります。無論殆ど豚肉ですが。余談になりますが、名古屋辺りから東では、肉と言えば、大抵豚肉の事なのですが、西の方では肉と言うのは、牛肉の事なのです。関西の人が東京で、肉じゃがを食べて、悪口を言っているのを、何度か聞いた事が有ります。文化の違いか、はたまた経済力の違いか、、、、、

ともかく豚肉には、時々お目にかかれるようになったのでした。

しかし滅多に食べられない、牛肉に対する憧れは大変なものでした。家で食べられる唯一の牛肉料理は、もっぱらスキヤキで、肉はちょっぴり、具はたっぷり、それでも大変な御馳走でした。少ない高価な牛肉でスキヤキをするのですから、具の方も数多くの種類と量が必要になります。

ネギや春菊シラタキ、豆腐は言うに及ばず、今では想像するのも難しいでしょうが、季節には、松茸なども絶好の増量材でした。勿論国産の松茸です。この時代、松茸はそれ程高価では有りませんでした。無論安物では無かったのですが。子供達は具の間に見え隠れする、かすかな牛肉の影を見逃しませんでした。

”中学生、食い気と色気のせめぎあい、頭の中の肉欲が、肉のかけらに追い出され”、




     

あるひの放課後、中華屋さんにて
西荻駅前あたりの餃子とラーメンが有名な中華屋、綺麗とも言えない小さな(失礼)店ですが、此処の餃子が優れ物、中華そば食って二~三人で餃子一皿、夕飯前のおやつみたいな物です。学校帰りに良く立ち寄ったものでした。大人の人は餃子でビールが定番でした。カウンターの天井から、豚足がぶら下がっているような店で、女の子は気持ち悪がって敬遠しますが、男共は良く立ち寄ったのです。

”おい中華食わねーか”

山本君
”ウン食おう” ドア開けると”やばい、メパチ飲んでるよ”
このメパチさん音楽の先生で、顔さえ見れば”大きく口開けて歌え、口開けろー” 気持ちよく歌っていると横から”口開けロー、口開けろー”


”雨雲低く垂れ、木々は愁いに満ち、”口開けロー”谷間をすぐる風は今日の別れを”口開けろー ”悲しめり、アロハ”口開けろー” オエー、アロハ口開けろ オエー、、、こんな感じです。



”良いじゃねーか悪い事するわけじゃねーんだから、入ろうよ”

山本君
”そうだな”


店の親父さん
”ラッシャイ” 威勢の良い声が出迎えます。座ってる赤い顔に一礼してから、


”おじさん中華二丁ね、一個大盛りで”


”あいよ”、”それと餃子一丁ね” ”おう”  座って三~四分素早いです、中華が卓上に並びました、餃子も、”あれ二皿?”おじさん一個だぜ”

”ああ、あちらから差し入れ” 後ろの席でにこにこ顔のメパチ先生、”君達腹減ってんだろ、食えよ””すいません頂きます”。ご馳走になりました。


この先生合唱が大好きで、何かにつけてハモらせますが、目立ちたがりのガキ共、なかなか思うようには歌いません。背筋を伸ばし大きく口開けてはっきり歌うのが音楽的にはベストなのでしょうが、格好付けて歌いたいガキ共は、ポッケに手を突っ込んで、背中丸めて裕次郎やディーンマーチンみたいな歌い方しますから声が出ません。いつも怒られていたのです。ちなみにメパチとは教壇の上で目をぱちぱちする癖があり、それでメパチになりました。

”先生相変わらず飲んでますか、相変わらず棒振ってますか、合唱団のお誘い、ほっかむりしてて申し訳ありません、私には無理ですよ、ご活躍を祈ってます、、、、”


ちなみに中華屋では先生、”でかい口開けろ”とは一言も言いませんでした。


さらにちなみに、この時から35年近くも経た平成六年、職場が多摩地区に移り、そこでメパチ先生と再会を果たすことになるとは、、、、言われもしないのに大きな口を開けて、”先生!”、、、世間は狭い物だと言うことを痛感したような次第です、、、、


各家庭にテレビが入ったおかげで、サンセット77、サーフサイド6やパパは何でも知っている、奥様は魔女、等と言ったアメリカのドラマなども見られるようになり、ファッションだけではなく、卓上のステーキやローストチキン、と言った、肉の塊を見せ付けられる事になるのです


。もっとも鶏肉の方はこの数年後に、大量飼育が出来るようになり、肉としてのステータス性を失うのですが、最後に残った牛肉のステータス性は、今の若い人には想像を絶する事でしょう。”


ステーキ”何とも響きの良い言葉です。本名はビーフステーキです。一般的にはビフテキと呼ばれ、この場合はサーロインステーキの事でした。フィレ肉の方はビフテキでは無く、現在と同じ様に、ヒレステーキと呼ばれていました。親とデパートの食堂などへ行った折に、前に座った知らないおじさんなどが、(当時デパートの食堂は、大テーブルに相席だったのです)ビフテキを食べていたりすると、自分の食べているカニコロッケなど、そっちのけで、穴のあく程ビフテキを眺めたものです。親に怒られたのは言うまでも有りません。子供同士で自慢が出来たのです。ビフテキを食べる人を間近に見た事で。


”宝くじ、縦に立つようなビフテキを、いまにこいつで食ってやる”、、、


ビフテキの血はイタリアの血
ビフテキの中でも特に厚くて大きいのを、ニューヨークカットと言います。本当にでかいです。アメリカ人はこれが大好きなのでした。厚くて大きいので、当然、中は生状態です。血の滴るリアルな状態ですから、この焼き加減をレアと言います。生肉の怖さを良く知っている、フランス人はこれを余り好みません。


カオールやプロバンスなどの南の暖かい、材料豊富な地方は別ですが、フランスの寒い地方、従ってフランスの大部分と言うことになりますが、何時も新鮮な材料が手に入るとは限りません。イタリアでなら捨ててしまうような、少々古くなった肉等も、工夫して、食べてしまうのです。

その代わり生ものには、人一倍警戒心が強いのです。ニューヨークカットのビフテキを好むのが、イタリア系アメリカ人に多いのは、日本人と同じように、生ものに対する慣れ、によるところが大きいのです。歴史的にニューヨークにはイタリア系が多いですから。 




 上図 憧れのビフテキ 厚切りニューヨークカット


禁じられたいたずら

”青春の熱き想いを解せずに、恋しさ託す我が企てに”、、、

1960年代初頭、元々運動好きはハンドボールや駆けっこ(陸上)で汗を流し、、読書、音楽好きな奴は、ドストエフスキーだのヘミングウエイなんかの感想を発表し合ったり、合唱サークルで雪山賛歌(マイダーリンクレメンタインの日本語バージョン)や埴生の宿(イングランド民謡)なんてのを熱心に練習したり、ハモニカやリコーダーで、ヤンキードゥードール(アルプス一万尺)なんてのブカブカピーヒャラやってましたが、我々悪たれ共は、部活の熱き思いとは裏腹に、クールで平穏、どちらかと言えば怠惰な日常を過ごしていました。


見かねた先生方が、”お前等何か一つ熱中しなきゃダメだ、部活をしなさい” と言うことで渋々の部活が始りました。結局15~6人の悪ガキが全員ハモニカ合奏部に入部したのです。前からの部員10人ほどの所へ悪ガキ15人近くが入ったわけですからいきなり大所帯になったのです。


他にも縦笛、(リコーダー)演奏部というのがありましたが、何故か全員、当然のようにハモニカ部に入ったのです。ハモニカも自分では持ってませんから、買うことになります。前からの部員と同じ物を部で一括して頼みました。

     

いつもの悪仲間が5人程でひそひそ話。
吉田君
”みんな聞け、ちょっと聞けよ! ちょっと告白、白状するけど、、、実は俺さー、平田のハモニカこっそりなめちゃった。一週間前”、、、

平田直美ちゃん、クラス、いや全校のアイドルでした。輝くほどの美貌、スタイル抜群、運動も勉強も、全部OKのスーパレディー、そのくせ気取らず気さくで話し上手、みん な彼女に恋してました、、、、悪ガキ全員がハモニカ部に入ったのはそのセイでした。


田口君
”お前もか、俺もだ、、、俺五日くらい前にちょこっとだけ、、、


前田君も堀内君も、そして私も、、、
”俺等おととい、なんだ皆、全員か、一曲吹いたんだ、、、ヒヒヒ、、、
”大庭、お前はどうなんだよ、、、、


大庭君
下向いてぼそっと、、”俺、毎日、、、”、、、


他の全員   
”え?


大庭君
”俺、、、、十日くらい前に、、、交換しちゃった、俺のと、、、こっそり”、、、


他の全員目を見合わせながら
”じゃああれは、、、、オエーオエーオエー、、、この野郎”、大庭の野郎”オエー、、、、


大庭君
悪い、ゴメン、勘弁してくれ、、、、明日元へ戻しとくから、、、、

全員
!テメー、バカ野郎、この野郎、大庭テメー!


”想えども、想い伝える術(すべ)知らず、只々身近に君を置く為に”、、、



1960年当時は、一般にラーメンは¥40-50、特に安い店で¥30、喫茶店のコーヒーはラーメンと同じ値段、ケーキ屋の苺ショートケーキは、コーヒー+¥10、
コーヒー3杯で、一番安い洋食であるピラフやナポリタン、ピラフ2皿半でカニコロッケ、ポークソテー(¥250-350-)、ポークソテー3皿半でやっとビフテキが食べられる事になるのです。実にラーメン30杯分の値段になるのでした。

ともかくサラダもパンも付かない、ステーキ単品で¥1000を越えるのは確実でした。


事実何処のレストランでも、他のオーダーの時は、シェフ(チーフ)は動きません。セカンド以下のコックが全てするのです。ナポリタン、ピラフの時はセカンド以下の職人も動きません。それまでキッチンの後ろで、ジャガ芋の皮むきをしていた、若い見習のコックが、先輩コックに呼ばれて、元気の良い返事と共に現れます。ピラフ、ナポリタンは、彼等見習いさんの仕事でした。ではチーフ(シェフ)は何をするのでしょう、、、


シェフはステーキを焼くだけでした。ステーキのオーダーが来ると、キッチンの奥に有るデスクの前から、おもむろに立ち上がり、”どけ” と一言、ストーブ前(和食で言う焼き方) をどかし、フライパンを手にします。程々に焼けたフライパンの中に、ブッチャー(切り出し方) がステーキ肉を恭しくいれます。

部下の職人が”レアで願います”とか伝えると、チーフは”うむ”と軽くうなずき焼くのです。絶対と言っても良い程、他の人には触らせませんでした。
    (注この時代はシェフとは言わず、チーフと英語で言っていました)
ちなみに、山手線は一回り(何周しても)10円の時代の話です。
          
       大人と青少年の架け橋、レストラン
金はなくとも気分は上流、
”学生さん、みんなあなたに憧れた、遊びの中にも知性のオーラ、後追う我らの道標(みちしるべ)、、、、、

山手線を一回りしても10円の時代のお話しです
50年代末期、60年代初頭、この頃にはレストランも、一般庶民でも手の届く、ちょっとお洒落な場所になっていたのです。程良くお洒落した、小綺麗な若い男女の、ちょっぴり華やかな社交場、と言った感じです。我々団塊はまだ中学生の頃の事です。
あまりお金は持っていないが、トレンドの先端を行く若者達と、自信と経験に溢れた、中年、初老の紳士淑女達の、自然な交流の場でも有ったのです。


トレンドの先端を行く若者達とは、大半が大学生で、しょっちゅう我が物顔で、レストランに出入りはしていますが、実はピラフとナポリタンしか、食った事が無いような人ばかりでした。なにしろこれだけは安かったのです。
(注 店によってはピラフではなくチキンライスとかポークライスだったり、またナポリタンがイタリ アンになったり、赤くなったり白くなったりはしたが、大体似た様な物だった)


”軽やかに、クロスを揺らすジャズの音(ね)が、心騒がし瞳を燃やす”、、、

余談になりますがこの時代の大学生はそもそも殆ど全員良家の子弟、子女、ねだれば親は幾らでも金を出したでしょうが、誇りを持って質素な日常をエンジョイしていました。ですが洒落っ気盛り、色気盛り、格好だけは一丁前に気取っていたのです

女の子でも連れて来た時だけ、見栄を張って、ポークソテーやカニコロッケなどを注文しますが、洒落たジャケットや、ブリティッシュファッションで、決めてはいても、その実は、懐が心配で、おちおちメシを食う気にも、なれなかったのです。
彼女の方も、そんな相方(あいかた)の懐具合などは、充分解っていますから、デートの帰り道などで、”今日の私の分”などと言って、¥1000札をポケットにねじ込んでくれたりします。この時点で若い男女の、心ときめく触れ合いが始まるのでした。

”学生さん、洒落たワンピの彼女連れ、ちょっと気取ってカフェブレイク”
 バックのジャズは軽やかに、テーブルクロスも華やかな、街の小さなレストラン、ナイフとフォーク
 

豪華なディナーは 食えないけれど、心はリッチにアラカルト、
 太宰あたりが茶菓になり、サルトル安保で 熱くなる、
 今日の主役はあいつの彼女、好奇の視線ににっこりと、軽くうなずき微笑み返し、
フロアに一輪デビュタント、、、”  
  
(注、デビュタント、社交界にデビューしたばかりのお嬢さん)


やっぱレストランは肩が凝る
本当に親密になると、次第にレストランから足が遠のきます。何と言っても高いからです。お洒落な事は相変わらずですが、焼鳥屋とかトンカツ屋、おでん屋と言った、気楽な所へ、足が向く様になるのです。おじさん達の集まる飲み屋に、ちょっと洒落た若者カップルがデビューした感じです。


おじさん達も優しく、それでも眩しい物、懐かしい物でも見るように、そっと仲間に入れてくれるのです。物腰も自然で、気取り、見栄と言ったものが感じられず、至極自然な男女と言った感じです。今や恋いもたけなわ、なのでしょう。時々周りのおじさんも会話に交じったりして、、、、


”心地良さは、密に咲く程のあじさいも、熱夏で萎んで秋冷を迎え、、かもよ”
ハートブレイク

そして彼女の方が、この前と同じスタイルで、同じ服を着て、待ち合わせ場所に現れた時が、この恋の、終わりの始まりになるのです、、、、。
心の傷も癒え、新たな出会いに巡り会った若者は、またまたレストランでカニコ

ロを食うのです。もっともっと心優しそうな、新たな女性と、、、、                                     

”あこがれの、彼女誘って初デート、ナイフフォークでおすましディナー、気取ってベンハー語るけど、本音はモンローかバルドーか”、、、
           
            

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第七章         ああ華の団塊高校生
高校生になった悪ガキは、当時一番のトレンド、アウトドアライフの花形、山歩きを部活に選びまし