「鈍い」ということは「強い」ということだ。

何年か前からの私の常識である。
人間、鈍感であることは生き抜くためには大きな助けとなる。

つまらないことが、妙に気になる私にとって、胃に穴を空けないための「まじない」のようにもなっている。

それでも、気になることは日々いくつも浮かんでくる。そうして、向こうへ押しやる。

閉まりかけたエレベーターの扉を、手でおしとどめた跡と思しき、いつまでも掃除されることのない何ものかもわからぬ汚れ。

ホームセンターの店内を、携帯電話を持ち、耳障りな大声で話しながら、車のガラスなどを割る時に使う先の尖った金槌?を一本握り締め、レジに向かうお隣の大陸の男性二人連れ。
かの国においては鬱病は稀な病だそうな。必ず他者が悪いのであって、自分を責めることがない為とか。

いつも細かなデータの確認がないまま、講座を進める講座講師の誤った日本語、言い間違え。

気がつかなければ、安穏としていられるのに、気づいた瞬間から何とも居心地の悪い気分を抱えることになる。
気がつきさえしなければ、平穏無事なのに。

昨日、先に書きこんだ「にんじんジュース健康法」の「石原結實ドクター」のことを「山本結實」と打ち間違えていたことに気がついた。

そういえば、先日も書店で、著者名「や」欄の棚で「石原ドクター」の本を探していて、見当たらないので諦めたのだった。

もう十数年前の有馬記念。
「○番、×○番…っていい番号ですよね。その連番で五百円だけ付き合います。」と、
野郎ばかりの職場でボスの競馬に付き合い、ビギナーズラックで?的中!なんてことがあったけれど、その時のいい番号ですねって言っていたのは「○月×○日」亡き父の誕生日だった。

十数年もたってふとその事実に気づき、何故「いい番号」だなんて思ったのだろうかと不思議でならない。
頭の中は、本当に読めないものだ。
自分の頭の中でさえそうなのだから、他人の頭の中は知る由もない。