(132)

昭和十五年九月十一日,内務省から各府県庁へ送った「隣保強化に関する訓令」のなかには左のごとき隣組々織方法が指示されてゐる。

 

一,部落会及町内会ノ下ニ十戸内外ノ戸数ヨリ成ル隣保班(名称適宜)ヲ組織スルコト

二,隣組班ノ組織に当リテハ五人組,十人組等ノ旧慣行中,存重スベキモノハ成ルベク之ヲ取リ入ルルコト

 

このやうに内務省では,何故に隣組構成の標準を十戸内外としたか。わが隣組制度史の示すところでは,五保及び五人組は五戸構成を標準としてゐる。もちろんこのほかの場合として,豊臣秀吉の企画した伍什制度は「武士は五人組庶民は十人組」とさだめ,また,近世の隣保に於いても,五戸より九戸までとするもの,四戸を基礎とするもの,十戸より十五戸を以って構成されるものもあった。しかしながら,わが隣保史の組織法の代表的形態は五戸構成であった。しかるに今日に於いて標準とする根拠は,果して何渡邉にあるか。

 

(133)

われらはこの訓令を,第一に,「五人組より十人組へ」の史的必然的過程として全幅の賛意を表したい。といふのは,なるほど近世に於ける五人組構成の戸数の代表的一例をみると左のごとくであって,あくまでも当時の「町は家並み,在方は最寄次第に,地借人は店〓まで五軒宛組合すべし」といふ五戸標準の規定がものをいってゐる。

 

(137)

明治初年以降,この七十年の間,隣保の強化に関してはかへりみるものが極めてすくなく,それ故に近世隣保構成戸数の規定のごときも過ぎし日の物語と化し去り,わづかに約三分の一の全国諸町村に五人組・十人組の〓名を存ずるのみとなり,伍長・保頭・組頭なる名称も,たゞ数戸から百数十戸にいたる部落の長を意味することゝなりはてたのであった。

 

[桑原三郎(1941.3.5)『隣保制度概説/隣組共助読本』二見書房]