19日という日 | + 葉桜と桜桃 +

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不定期で不安定な日記帳。

私にとって、19日が、さらに特別な日になってしまった今年の桜桃忌。


今年は何を読もうか迷いながら、ふらりと書店に立ち寄った或る日。


河出文庫の本の帯に「一緒に死のう」と書かれてあり、思わず手に取る。(「姥捨」の一文)


そうだ、太宰は作品を通して一緒に死んでくれる作家なのだ。きっと今日も、誰かが手を伸ばし、そこに希望を見つけて生きるのだろう。

太宰の小説を読み、疑似的に一度死んで、私はまた再び生きるのだ。文学も音楽も、現実逃避の味方だ。


私の原点回帰である「走れメロス」を読もうと思い、文庫本を開いた。


ぱらぱらめくっていると、突然現れた。


「人は誰でもみんな死ぬさ」


胸の奥に鋭く突き刺さった。

これだと思った。


恋をしたのだ、から始まる「ダス・ゲマイネ」の結びの台詞。


4人の青年の芸術論議、淡い恋の行方、きらびやかな幻燈に見立てた花街、その光と影のどちらが真実か。

名もなき主人公を含めた4人には、実在のモデルがいるが、中身は太宰治自身であり、自身の特徴や芸術への考え方などが一人一人に反映されていて、新人作家として本人も登場している。


からっぽのヴァイオリンケエス、まるはだかの野苺と着飾った市場の苺、誰にも知られることのなかったさのじろの創作。芸術の在り方を、物語を通して問いかけているのかもしれない。


「菊ちゃん。佐野次郎は死んだよ。ああ、いなくなったのだ。どこを捜してもいないよ。泣くな」


気づけば止まらなくなり、次から次へと作品を読んでいた。


私の心の奥底に溜まった黒い澱のようなものも、膿んだ傷の痛みも、読んでいる間は預けていられる。

太宰の小説は、呪いを引き受けてくれるような、不思議な優しさがあると改めて感じた。


そして、私が今一番必要としている金言をもらった。


「水は器にしたがうものだ」




太宰さん、私がいつか死んだら真っ先に会いに行って、ずっとあなたのファンでした!と一輪の薔薇の花を渡してサインを貰おうと思っていました。

でもごめんなさい、たぶん6番目になると思うので、その時はどうか、へそを曲げないでください。