こんにちは、絶學無憂です。
「感情解放でストレスが無くなるのと、散歩に行ったりして気晴らしをしてストレスがなくなるのとは同じですか?」
というご質問を受けました。
ここでいう感情解放というのは、レイキ、音叉、ESR、EFTタッピング、エモーションフリー、般若心経の真言、バイロン・ケイティのザ・ワーク、などなどのテクニックを用いて、感情ストレスを解放することを指しています。
こういった技術で得られるストレス解放後の状態と、散歩に行ったりして気晴らしをして気分が良くなったときの状態とは同じかどうかという質問です。
このふたつはかなり明確に違う、と考えています。
これ、どうやって見分けるかお分かりですか?どっちもストレスが無くなっているのでよく似ていますが。
気晴らしの場合、意識のフォーカスを別のものに向けたことによって気分が良くなっています。ですが、もし元々のストレスに関して、まだ何も気づきが得られていないままであれば、再び、そのストレスを感じていたことに意識を向けると、同じ感情がモクモクと浮上してきます。
感情 = 出来事 × 観念
という公式の通り、起こってしまった出来事を直接変えることは出来ないので、感情を変えようとすれば、観念に働きかけるしかありません。でも、気晴らしの効果というのはこの公式には表現されていませんね。この公式は、この出来事に注意が100%向かっている状態を想定しています。
感情 = 出来事 × 注意 × 観念
とするのがよいかもしれませんね。その出来事にまったく注意が向かっていなければ、出来事が起こっていないのと同じ扱いになるので、感情は発生しません。
それでは感情解放を行った場合はどうかというと、再び、そのストレスを感じていたことに意識を向けても、平気の平左です。
感情 = 出来事 × 観念
こちらで考えると、起こった出来事に対しては何もしていないので、感情が変化したからには観念に変化が生じていなければいけない、となります。
上で、気晴らしの方について「まだ何も気づきが得られていないままであれば」という但し書きを加えたのは、気付きが得られた場合には、自分の持っていた観念が書き換わっているため、そのことによって感情解放が自然に起こってしまうからです。
では気晴らしは全然ダメかというとそうでもありません。引き寄せの法則の焦点となるのは、今この瞬間に自分がどのような波動でいるか、どのような感情を体験しているか、ですから、気晴らしで楽しいことの方へ焦点が向かっている間は、ストレスを体験している状態が同じようなストレス状態を引き寄せるのに比べると、ずっとよい未来を引き寄せていることになるでしょう。
では、観念の方はそのままにして、徹底的に気晴らしを行ったら、それでもよいのでしょうか?
これはおそらく非常に一般的なアプローチだと思うのですが、徹底的な気晴らしは問題の解決になるのでしょうか?
ならなさそうな気がしますよね?例えばパチンコや競馬やゲームに没頭することで人生が好転したとかあまり聞きません。
ならないのでは、と思います。
嫌なことがあって、それを一時的に忘れて、映画でも見て面白かった、というときと、別に悩みもない状態で映画を見て面白かった、というときと、同じ映画でもやはり反応が違いませんか?
気晴らしで100%ストレスから目を背けるというのはたぶん難しいのだと思います。一生懸命気晴らしをしても常に何%かは、そのことについてまだウジウジ考え続けている、なんていうのが一般的ではないでしょうか。
抵抗波動と言ったりしますが、未解決の感情を抱えていると、それがやはり波動を下げるのだと思います。
感情解放という言葉から、ただただ溜まっている感情を吐き出すのだろう、とイメージしている人が多いのではないかと思いますが、起こっていることはおそらくそうではない、というのが分かりますでしょうか。感情の発露の際に気づきを伴って観念が書き換わる、ということはありますが、観念が書き換わらない限りはいくら泣いたり怒ったりしても、なかなか無くならないのが感情です。
観念の手放し、と言ったほうが実は正確なのですが、差を感じる部分は感情が消えるという部分なので感情解放という呼び方も間違いとも言えません。