男はつらいよ 知床慕情
★★★★

松竹/106分/1987年(昭62)8月15日公開 <第38作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    出川三男
共演-倍賞千恵子・下條正巳・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆・吉岡秀隆・美保純・佐藤蛾次郎
ゲスト-竹下景子・三船敏郎・淡路恵子・すまけい・関敬六・イッセー尾形
 

併映作品:『塀の中の懲りない面々』監督:森崎東 出演:藤竜也、植木等、山城新伍、小柳ルミ子、花沢徳衛、柳葉敏郎、川谷拓三
動員数207万4000人/ロケ地:札幌、北海道川湯、知床、岐阜県長良

第61回キネマ旬報BEST10第6位/第30回ブルーリボン賞・助演男優賞:三船敏郎/第3回文化庁芸術作品賞/第16回文化庁優秀映画(1987年)/第42回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞・男優助演賞:三船敏郎/第11回日本アカデミー賞・優秀助演男優賞:三船敏郎・優秀助演女優賞:淡路恵子

★「男はつらいよ」シリーズ第38作目。

第9作「柴又慕情」から続いていたトップの夢のシーンが本作第38作目で変更となっている。桜並木に寅のナレーションで始まる今回のトップシーンは、第1作の江戸川のやはり桜並木のシーンを彷彿とされる。しかしナレーションとして改めて渥美清の声だけを聞くと、第1作の澄んだ艶のある声は失われ、どこかフィルターを被したようなくぐもった声の印象を持つ。渥美清の体調の異変に初めて気づいたのは現場の音声さんだったらしいが、すでにこの時、声の異変を感じていたのだろうか・・・。

渥美の声の衰えは素人目にも明らかだが、その役者としてのアクションは未だ見事に健在だ。柴又に戻ってきた寅、おいちゃんが入院しているを知って病院へ。イッセー尾形演ずる医者へウヰスキーを無理やり手渡そうとするシーン、片足でイッセーの足を踏んでさらに両足で踏んづける所は舞台出身らしい渥美清の真骨頂を見る思いだ。その他にも終盤、マドンナとの会話で「これでも男の端くれだからな」と格好つけて船首にもたれかかって転けそうになるシーンも素晴らしい。

今回の舞台は北海道の知床。寅は無骨な獣医の三船敏郎と知り合う。本作の観客動員数は久しぶりの200万人超えとなった事実を考えると、当時の観客は三船敏郎と渥美清の初共演にかなり期待して劇場に足を運んだようだ。

三船敏郎は1920年(大正9年)中国・青島市生まれのこの時67歳。ブルーリボン賞歴代最多(6度)入賞者であり、ヴェネツィア国際映画祭男優賞を2度受賞し、世界のミフネと呼ばれた。
父は、秋田県鳥海町の16代続く名家・三船家の次男であり、貿易商であり、写真業も営んでいた。三船は1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就き,写真の経験・知識があるということから、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。息子の史郎の話では、上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、その出来が良かったので教育隊に残るように言われ、仲間はみな南方の戦地に赴いたが、そのおかげで生き残ることが出来たと、忸怩たる思いで語ったという。
1940年(昭和15年)、三船は先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われた。が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。 他の兵隊がいじめられているのを見た三船は「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。俺は俺の階級を忘れる。お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ。」 と言ったという。
1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事し、少年兵の教育係も任された。自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送った。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという。息子である史郎の話によると、明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったという。後年「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語っている。

終戦後、三船は東宝撮影部の大山との約束を頼りに、復員服のまま大山を訪ね、撮影助手採用を願い出た。ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船は面接を受けることになった。

面接では審査員に「笑ってみてください」と言われた際に驚き、「面白くもないのに笑えません」と答え、人を食ったふてぶてしい態度を取って、結局性格に穏便さを欠くという理由で不合格、という結論が出てしまう。
ところが、当時、会場に居合わせた女優の高峰秀子は、三船の存在感に胸騒ぎを感じており、彼女は撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に、三船のことを知らせた。駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じた。審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じだった。 黒澤は不合格に抗議し、結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか補欠採用となった。東宝第1期ニューフェイスの同期には久我美子、堀雄二、伊豆肇、若山セツ子、堺左千夫らがいる。

1947年(昭和22年)、三船は『銀嶺の果て』(監督:谷口千吉、脚本編集:黒澤明)で役者としてデビュー。雪山で遭難する3人のうちの1人を演じて話題となる。このとき谷口は、野生的な男を探していて、同じ電車の乗り合わせた三船をみて、誘うことを決める。しかし、三船は、「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断った。あくまで撮影部を希望していたが、谷口は三船の着ていたものが航空隊の制服だった事から、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示したという。ちなみに3人のうちの2人目は志村喬だった。この映画で黒澤は自分が感じていた三船のたぐいまれな才能を確信する。

1948年(昭和23年)、デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場。この作品により三船はスターとなる。黒澤明は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返っている。その後『静かなる決闘』、『野良犬』、『醜聞(スキャンダル)』、『羅生門』と立て続けに主演。『羅生門』は1951年にヴェネチア映画祭で金獅子賞を取り、「世界のミフネ」の起点となった。

1951年『白痴』に主演した際、、黒澤が精神的重圧のあまり近くにあったナイフで手首を切ろうとしたところ、三船がナイフを取り上げて止めた。1954年の『七人の侍』は、志村と共同主演の形だが、ドラマ上では沈着冷静なリーダーの志村以上に一行のもてあまし者の三船の方にスポットが当てられており、クレジット上でも上位の扱いである。随所に見られる菊千代のおどけた場面は三船の演技プランであった。1961年『用心棒』で、ヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞。1962年『用心棒』の続編的作品である『椿三十郎』での、最後の決闘シーンにおいての三船の居合はわずか0.3秒であり、三船自身が思いついた殺陣だった。1963年『天国と地獄』で主演。1965年『赤ひげ』の主演で、2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞を受賞した。

三船は、撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。そして三船はトップスターながら偉ぶらず、付き人もなしで、自分で車を運転して撮影所に現れて、誰に対しても気取らずに親しんで挨拶をした。エキストラにも挨拶をするので、スタッフがあわてたという。またロケが終わると、ライトの片づけ等を手伝うなど気さくな性格だった。

長くなったが映画の話に戻る。

この映画でも三船自らがポンコツ車を運転するシーンが多く出てきている。三船程の大スターなら運転は代役が代わって撮影しても許されるだろうと思うが、多分三船はこのポンコツ車を運転するのが楽しかったのではないだろうか。また牛の出産シーンがあるが、あれも本当に三船は実際の牛の膣内に、腕を入れているように思える。

三船の家で一晩世話になる事となった寅。近くのスナックはまなすのママ、淡路恵子と知り合う。
淡路恵子は1933年、東京・品川に生まれで、この時54歳。1948年に松竹歌劇団の養成学校である松竹音楽舞踊学校に4期生として入学。1949年、入団前の学校生の時に黒澤明監督に抜擢され本名の井田綾子で新東宝映画『野良犬』に映画デビュー。この時に三船敏郎と共演している。1953年からは多くの松竹映画に出演。主演したメロドラマ『この世の花』は続編、続々編と大ヒットしたため完結編まで全10部作製作された。1954年にはマーク・ロブソン監督に見出され、パラマウント映画『トコリの橋』でミッキー・ルーニーと共演。1957年に出演した『太夫さんより・女体は哀しく』と『下町』の演技でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞。1960年代には東宝の“駅前シリーズ”や“社長シリーズ”のレギュラー出演など数多くの映画に出演した。
テレビドラマでは、1961年にNHKの『若い季節』に女社長役で主演。1963年に越路吹雪、岸田今日子、横山道代との四姉妹役で出演した日本テレビ『男嫌い』は数々の流行語を生み出す話題作となった。そして結婚引退した後の1987年『男はつらいよ 知床慕情』の本作で20年ぶりに女優復帰した。その後同じ山田監督の「ダウンタウン・ヒーローズ」「男はつらいよ寅次郎心の旅路」にも出演している。

宝塚歌劇の娘役スターであった淡島千景に憧れて、芸名を淡路にしたという。淡島のことは「お姉ちゃま」と呼んで慕っており、『駅前シリーズ』など多くの映画や舞台で共演している。また、プライベートでも親交が深く実妹の様に可愛がられ、淡島の親族・関係者と共に臨終にも立ち会った。恵子の名は黒澤明監督に付けて貰っている。越路吹雪とは生前、プライベートでも大変仲がよくて大親友であり、越路が亡くなった際には死化粧を行った。山本陽子とはプライベートでも親交があり親友の1人である。大の愛煙家で一日3箱を長年愛飲していた。芸能界有数の喫煙姿が絵になる人として、バラエティ番組等で紹介されることもある。

2014年1月11日、食道がんのため死去。80歳没。食道がんに関しては投薬により治療していた。また直腸がんの手術も成功していたが、2013年9月以降食事を受け付けなくなり、徐々に体力が落ちていき、2014年1月9日に容体が急変したという。戒名は「宝珠院淡路日恵清大姉」。東京・青山葬儀所で通夜告別式が営まれ、デビュー当時から親交が深い旧友の草笛光子や宝田明、プライベートで可愛がられていた浅田美代子、小堺一機、爆笑問題、はるな愛など約300人が通夜に参列し、22日の告別式には淡路と60年来の大親友であったデヴィ・スカルノ、高橋英樹、中尾ミエ、綾戸智恵ほか約150人が参列し別れを惜しんだ。

映画に戻って、その後寅は今回のマドンナ、竹下景子と出会う。竹下は4年前に公開された第32作「口笛を吹く寅次郎」以来の二回目のマドンナで当時34歳。今回は髪型がショートカットとなって三船の娘を演じている。

竹下が戻った夜、ジンギスカンで酒を飲むシーン、三船敏郎、渥美清、淡路恵子、竹下景子、そしてすまけいのそれぞれの役者たちが醸しだすアンサンブルは至福だ。

淡路「先生嬉しいでしょ、久しぶりに娘に会えて」
三船「家出娘の面みて何が嬉しいんだぁ」
すま「(奥で魚捌きながら)・・りん子ちゃん、大々的にあんたの歓迎会やるびゃあ言ってんだけどいつまで居るんだ?」
竹下「・・・そうねぇ」
淡路「ゆっくりしなさい、久し振り何だから」
すま「旦那さん連れてくれば良かったのに、なあカアさん」
三船、気に入らず立ち上がって窓際へ。
寅「・・・ひねくれた性格だね」
淡路「困った男」
すま「早く子供作れや、孫の顔見たらどんな頑固親父もイチコロだぁ」
淡路「・・・最後に手紙貰ったの去年の秋だったかな、悩みがあるような事書いてあったでしょ、心配してたのよ」
竹下「すいません」
淡路「うまく行ってるの?」
竹下、首を振る。気にする寅。
すま「♪晴れた空ぁ・・そよぐ風ぇ♪」
三船、戻ってきて「フン、無神経な奴だ」
寅「そういうことを言う資格は無いんだよ、アンタに、ナア。今難しい話してんだから。おとなしく酒飲んでろ、ホラ」
竹下「・・・父さん」
三船「何だ」
竹下「あたしね、結婚に失敗しちゃったの・・・」
一同驚く。
淡路「・・別れたの」竹下、頷く。
淡路「いつ?」
竹下「三ヶ月前。・・・しばらく独りで暮らしていたの」
淡路「・・フーン、やっぱりね。会った時から、何かあるんじゃないかと思ってたよ」
会話が聞こえていないすまの歌声が響く。
三船「うるさい! 歌なんか唄うなっ!」
息を呑むすま。
寅「オイサン、八つ当たりはよしな。みっともない」
三船「・・・あんな情けない男と一緒になるからだ。お前が馬鹿なんだ。」
淡路「・・先生、何てこと言うの、黙って聞いてあげなさい、りん子ちゃんの話。」
三船「黙ってろと言うのか。」
淡路「こういう時、親父は黙っているもんだよっ」
三船「何で俺が喋っちゃイカンのだ。娘が親の許しもなく、くだらん男と一緒になって、勝手に別れて帰ってきて、それで俺に知らん顔しろと言うのか」
竹下「ごめんなさい、謝ればいいんでしょ」泣き崩れる。
淡路「かわいそうに、クソ親父」二人、出て行く。
すま「・・イャー、気の毒な事だったなぁ」
寅「(笑って)マア船長。ちょうど酒も無いし、ひとっ走り行って買って来いや、なっ」
すま「了解、了解。すぐ行く。ついでにわさびも持ってくるから。ちょうどいかった」
寅と三船、二人になる。
寅「マア、気持ちは分かるけどよ、自殺もせずにこうして親元に帰ってきたんだから。良かったじゃねぇか、えー」
三船にビールを注ぐ寅。

いつもは短気ですぐひねくれる寅が、このシーンでは逆転して三船をなだめているのが可笑しい。三船敏郎の演ずる頑固親父は、自身の持っているアイデンティティーと一致した性格でもあったようだ。

1958年、大型台風の猛威で都内では仙川が氾濫し、当時三船の自宅のあった成城近隣も水没。近隣の水没した世帯の取り残された住人18名を、三船は自宅に所持していたモーターボートで成城警察署の署員と共に救出した事があった。後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしたが、三船は断りマスコミへの公表も差し止めた。
三船美佳は自身の幼少時を振り返り、「父が映画を撮りたがっていた『孫悟空』のストーリーを、寝る時によく父から聞かせてもらいました。 でもいつも話してるうちに熱くなっちゃって、(孫悟空になりきって)棒を持って暴れはじめるんです(笑)」と父・敏郎とのエピソードを披露した。
一方、酒癖の悪さでも知られ、飲むと性格が一変した。1957年『蜘蛛巣城』での撮影時、黒澤が三船に向かって本物の矢を射させた。後に三船は酒に酔った時にこのことで激怒して散弾銃を持って黒澤の自宅に押し掛けたというエピソードがある。さらに、酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかると逆に車外へ蹴飛ばされ更に殴り捲られ完全に伸びてしまい、翌日は顔が腫れたままで撮影にならなかったこともある。

浜美枝は、三船について「お酒さえ入らなければ、本当にやさしくていい人なんですけどねえ」と語っている。また、奇行に走る傾向もあり、監督の家でスタッフと飲んで酔っ払い、居間の太い梁によじ登って懸垂を始めたり、夜遅くに家の近所を奇声を上げながら走り回ったり、中には映画用の小道具である槍を持ち出して石原裕次郎の家に果し合いに行ったという冗談のようなエピソードもある。

映画に戻り、竹下は知床に戻ることを決意、東京のアパートを引き払いとらやにも挨拶に来る。この時のアパートの大家を演じているのが三作続けて出演の笹野高史。ケチな大家を今回は面白く演じている。ただ映画のラストでは、竹下は再び東京へ戻って来て仕事をする筋運びとなっている。短期間に東京-知床の引越を二往復するという、非常に強引な設定となっているのは本作の弱いところである。

その後、スナックはまなすのママである淡路が新潟に引き上げる話になる。三船が淡路に背中に湿布をしてもらいそれを聞く。この二人は実はお互いに惹かれ合っているのが分かる。

淡路「・・・先生とはずいぶん長い付き合いだったわねぇ。(腕組んで)・・・手も握ってくれなかったけど。」
三船「・・・いかん、・・・いかん」
運悪く電話が入って三船の思いは終盤へと引き継がれる。

三船は1950年(昭和25年)、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚している。同年に息子の史郎をもうける。幸子は45年にわたる結婚生活を、「次男坊が十歳になるくらいまではよかった」と、友人に語っているが、1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた幸子により、三船は家から追い出される。しかし本心は三船との関係修復を望んでいたという。そのため、幸子は三船が離婚しようとするとこれを拒否。最後は三船側より離婚訴訟が起こされるが、離婚届に判を死ぬまで押さなかった。この離婚裁判の間に三船は女優・喜多川美佳と交際、1982年に娘をもうけた。娘・美佳が生まれて間もないころ、三船は喜多川と娘・美佳を連れてマスコミの前に現れて親子三人の写真を撮らせている。娘の美佳とはかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったという。けれども、1992年(平成4年)に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は喜多川美佳との関係を解消して、三船の看病を希望した幸子のもとに戻っていった。それ以後、幸子は時節体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係であったという。1995年、幸子が死去し、45年間の結婚に幕が下りた。

一方、三船の相手役の淡路は、20歳のときにフィリピン人歌手ビンボー・ダナオと結婚。ダナオは本国に妻と4人の子供がいて、またカトリック信者であり、離婚ができなかった。入籍はしていない。淡路によれば「私、結婚に対してなんの夢もなきゃ、婚姻届を出すとかそんなことも知らなかったの。“好きだ、好きだ”って彼が言って、私が家を建てたらやって来て、お互いに好きだから一緒にいただけ。一緒にいるから結婚だと思っていたくらい(笑い)」という。
長男の島英津夫と次男を出産。二児の母となるが1965年に離婚(ダナオは1967年に腺肉腫で死去)。1966年に中村錦之助(後に萬屋錦之介と改名)と再婚し女優業を引退、三男・四男を出産した。しかし、萬屋の個人事務所である中村プロが13億円もの莫大な負債を抱え倒産。筋無力症で倒れた萬屋を献身的に看病するが、豪邸を売却し貯金も尽きた淡路は、萬屋を看病しながら生活費を稼ぐため、一時期は六本木でクラブの雇われママも経験した。萬屋とは甲にしきとの不倫問題などで1987年に離婚している。

知床に戻ってきた竹下。寅と会って父親・三船の淡路に寄せる思いを聞かされる。

寅「俺あのオジサンの事、可哀想でしょうがないんだ」
竹下「どうして?」
寅「こっちは冗談のつもりで言ったのに、向こうは真に受けて急に怒り出しちゃっただろう。俺驚いちゃってなぁ」
竹下「何を言ったの?」
寅「いや、本当に惚れてるんだったら、俺が一肌脱いでもいいぜってこう言ったのさ」
竹下「惚れてるって誰に?」
寅「他に居ますか?、はまなすのカアサンだよ」
竹下「・・・まさかぁー、父さんが恋してる何てそんなぁ、悪い冗談よ、ほんとにィー」
寅「あれぇー、りん子ちゃん、知らなかったのか。俺なんかあの二人最初に見た時からピーンと来てたぞぉー」
竹下「たってぇー、父さん、もう年よぉ」
寅「男が女に惚れるのに、年なんかあるかいっ」
竹下「でもぉー」
寅「何よりの証拠にねぇ、俺がオジサンにその事言ったら、真っ赤になって怒ってさぁ、しまいには鉄砲持ちだされて、俺撃ち殺されそうににったよ」
竹下「じゃあ本気かしら」
寅「本気も本気、今オジサンの胸の内はね、恋の炎で持ってもうジリジリジリジリ、焼き肉みたいになっちゃってる」
竹下「マア、・・・もしそうだとしたら、どうすれば良いのかしら?」
寅「仕方が無いなぁこれは。いずれ、振られて、失恋っていう事になるんだよ。かわいそうな男だよ。何とか未然に防げなかったかね、こういった事は」
竹下「もしおばさんにその気持があっても?」
寅「5年も10年も面突き合わせていてだ、愛の言葉一つ言えないような男に、あのおばさんが惚れるかい?」
竹下「・・・そうねぇー」
寅「せめて自殺でもしないように、りん子ちゃんがよく見張ってるこっただなぁ」
竹下「・・・恋って、そんなに激しいものかしら」
寅「・・そうだよ。」
竹下「寅さんも経験があるのー?」
寅「これでも男の端くれだからな」
とコケそうになる寅。

そして映画の山場、広大な知床の風景の中でのバーベキューのシーン。三船が離れて座っている岩場は多分美術部が作った作り物の岩だろう。 少し離れて岩の上で座る姿は、構図的にも三船の性格が反映したドンピシャな絵となっている。この撮影では三船は大きなキャンピングカーを運転して撮影に現れたそうだ。現場では、三船は周囲に気を遣い、キャンピングカーに撮影スタッフや役者を呼んで、お茶会を開いたという気さくなエピソードが残っている。
三船は自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。また、料理が好きで、「ゴジラ」等のスーツアクター中島春雄によると、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった黒澤作品の御殿場ロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかった当時の現場では大好評だったそうである。

三船はこの年、市川崑監督の『竹取物語』にも出演している。黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船には世界中からオファーが舞い込んでいた。 その数は晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど殺到しており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っていたそうだ。本作の助演で6度目のブルーリボン賞に輝いた際には、「まさか賞をいただけるとは思わなかった。寅さんですよね? 手応えあったかと言われても『竹取物語』と掛け持ちでちょっとしか出てなかったし、俺はああいう無骨な役しかできないし」と三船にとっても驚きと戸惑いの方が大きかったようで、受賞インタビューでは「まあ、いただけるものならありがたくちょうだいしますよ」と最後まで照れていた。

そしてバーベキューのシーン、淡路が新潟に引っ込むことを告げる。驚く一同。三船は子供のような駄々こねて反対だと言い張る。寅が笑って三船に近寄る。

寅「なぁ、オジサンよ。あんたがそこまで反対しているのは、それなりに訳があるんだろう。だったらその訳をちゃんと言ってみな」
三船「・・・言えるか、そんなこと」
寅「ほぉー、言えませんと。言えなきゃあ、おしまいだ。ママは新潟に帰っちゃうもんなぁ」
三船「だから俺は反対だと言ってるんじゃあないかぁ」
寅「だからその理由をちゃんと言えって言ってるんだ男らしく。・・・みんなもそう思うだろ」
一同、「うんだぁ、うんだァ」
寅「勇気を出して言え。今言わなかったらなオジサン、一生死ぬまで言えないぞ」
三船「・・・よし、言ってやる。言ってやるぞぉ」
寅「よし。・・・行けぇぇぇ」
三船、淡路の前に突進してきて、
三船「俺が行っちゃあイカンと言う訳は・・・俺が、俺が、俺が惚れているからだ、・・悪いか」
淡路、感激して口を抑える。
寅「・・ハァ~、言っちゃったよぉ」

一同大喜びで、いつものパターン、「知床旅情」を全員で合唱となる。寅は竹下が自分の手を握っていることに気づき、ビビってしまう。

そしてそれに続くシーン、本作での竹下と寅の最後のシーンになる訳だが、竹下が別れ際に寅を呼び止める。
竹下「・・・どう言えばいいのか、・・・ありがとう、いろいろと・・」
このセリフからは竹下が寅にどのような感情を持っているのか、父親の件を感謝しているだけなのかよくわからない。

そして翌朝、寅は、すまにりん子の事をからかわれて怒って、知床を後にする。りん子は寅が真っ赤になって突然怒りだしたことを聞くに及び、三船を怒らした時と同じ反応をした寅を知り、寅の自分に対する思いを悟ってしまう事となる。

そして夏が来てとらやに竹下が訪ねてくる。私はこの後、竹下と寅が再会するという、さらに一シークエンスがあるのだろうと思ってしまった。しかしすでにエピローグに入っており、寅からの手紙が映し出される。さらに前途したように竹下は東京で仕事が決まり、浴衣を着てこれから花火を見るそうな。どうにもしっくりしない。溜飲が下がらない。竹下の、寅に対する感情は結局なんだったのだろうか? 東京へ出て来て再就職などぜず、知床の地で、三船と淡路の三人で暮す日常の中で、寅に対する思いを手紙に託したナレーションがかぶるほうが自然で良かったのではないだろうかと思える・・・。

ラストに不満はあるが、それでもやはり本作は名優・三船敏郎の晩年の代表作となった秀作には違いない。

三船敏郎はその後1988年、第6回川喜多賞受賞。1993年、勲三等瑞宝章受章。このころより体調がすぐれないことが多くなり、1997年12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたと言われる。

葬儀は黒澤プロ=三船プロ=東宝の合同葬だった。三船は現在、神奈川県川崎市の春秋苑に建立された先祖代々の墓所にて眠っている。
山田洋次は、三船敏郎主演で晩年の宮本武蔵を描いた「それからの武蔵」を企画し、脚本まで書いていたが実現しなかった・・・。