男はつらいよ 寅次郎と殿様
★★★★

松竹/99分/1977年(昭52)8月6日公開 <第19作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    出川三男
共演-倍賞千恵子・下條正巳・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-真野響子・嵐寛寿郎・三木のり平・平田昭彦


併映『坊ちゃん』監督:前田陽一 出演:中村雅俊、松坂慶子、地井武男
動員数140万2千人//ロケ地・愛媛県大洲
 

★「男はつらいよ」シリーズ第19作目。

前回とは打って変わって正調喜劇映画の王道の出来。アラカンや三木のり平、平田昭彦などのベテランの共演が見ものだ。

今回の夢のシーンは鞍馬天狗。当然ゲストの嵐寛寿郎に敬意を評してだろう。上條恒彦もノンクレジットで出演している。

柴又に戻ってきた寅、満男の土産におもちゃの小さな鯉のぼりを差し出す。しかしとらやの庭には立派な鯉のぼりが風に舞っている。第11作の「忘れな草」のおもちゃのピアノと良く似たエヒソードだ。この時はこれがキッカケになり寅は即、旅に出て行ったが今回はそうならない。やがて夕方になり拾った犬の名を「トラ」呼ばわりされて喧嘩となり旅に出ていく。この犬の名前を巡るシーンは大笑いさせられる。

舞台は愛媛県大洲へ。
真野響子と地元の殿様、嵐寛寿郎との出会いが小気味よく描かれる。アラカンはこの時75歳。300本以上の映画に出演した、戦前映画界の押しも押されぬ「時代劇」の大剣戟スター。晩年は東映の任侠映画にも多数出演して存在感を残した。


嵐 寛壽郎
1902年(明治35年)12月8日、京都市木屋町三条下ルに生まれる。「無芸だった」という父親が奉公していた手前、縄手に住む祖母の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。
満十歳の時、母親の「芸事より固い商売を」との方針で、丁稚奉公させられる。「睡眠5時間、おかずは沢庵二切れのみ、月給一円、休みは月に一度だけ」という殺人的重労働に「まるで留置場やった」と述懐している。
丁稚時代、月に一度の休日に活動写真を観に行くことだけが愉しみで、尾上松之助の忍術トリック映画や、ニコニコ大会(バスター・キートン、チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドの混載興行)に熱中していた。

1919年(大正8年)、手代から番頭に出世しようという17歳のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に頼んで愛知県岡崎市で巡業中の片岡松之助の一座に加入。「食事は卵に味噌汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。
一座ではちょうど片岡義士劇の大石主悦役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「嵐徳太郎」の芸名をもらい、数えで18歳でいきなり主悦役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで殺陣を覚えた。
「飲む打つ買う」の巡業生活に染まって、オイチョカブに誘われ、松江の巡業先で大事な衣装の紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都へ逃げ帰る。
 

1921年(大正10年)、初代中村扇雀(中村鴈治郎)一座の、当時「ちんこ芝居」と呼ばれた「関西青年歌舞伎」に加わり、女形となる。
ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る市川百々之助、市川右一(のちの市川右太衛門)、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが同期生所属していて、百々之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が揃って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。「不謹慎にいえば、オイチョカブのおかげで桧舞台を踏むことがでけた」と語っている。
芝居の世界は女買いが盛んで、若い徳太郎は酒は飲めなかったが「モテにモテて」、粋筋から引く手あまただったが、女郎を買うときは必ず根引き(独占)にしていた。
 

1923年(大正12年)、腰元役ばかりでうだつの上がらぬ現状に不満を抱き、「桐竹紋十郎の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐徳太郎は、「二流の小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げた叔父の徳三郎の一座に加入。
この夏、好きになった年増の芸妓と駆け落ちを決意。出奔の当日9月1日正午に関東大震災が発生。結局女も金も失い、失意のまま京都へ戻り、「しばらくふぬけていた」という。
しばらくして叔父の徳三郎が東京から引き揚げ、先々代片岡仁左衛門を「うわのせ(特別出演)」して、大阪松島の八千代座での旗揚げ公演を決定。誘いをかけてきた。「月給百五十円」で加入を決意。屋号を葉村屋、叔父徳三郎から「嵐和歌太夫」の芸名をもらう。この一座で片岡千栄蔵(のちの片岡千恵蔵)と鏡台を並べる。

1926年(大正15年)、芸妓に振られ自棄気味だった嵐和歌太夫は女出入りが激しく、ついに淋病に罹り、子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千栄蔵に代役を頼んだ。難聴のおかげで徴兵検査を丙種失格となる。

1927年(昭和2年)、癇癪持ちの片岡仁左衛門が、「奴」を踊った千栄蔵(片岡千恵蔵)を「貴様は鈍な役者だ」と真剣の峰で殴った。
このときそばで見ていた和歌太夫は「男の面態を!」と心が寒くなり、「阿呆でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯喰わされる、こんな世界に何の未練もない」と思ったという。
 

この事件が起こったころに、マキノ省三が映画界入りを誘ってきた。マキノ監督は独立した市川右太衛門の後釜として「月給八百円」(当時家が一軒買えた)の高待遇を提示。「丁稚奉公と同じや、ウソで塗り固められた徒弟制度の枠の中で主人の顔色をうかがって、犬のように餌をもらう生活は御免や」と考えていた和歌太夫は、北陸の巡業先から逐電し、同年3月にマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。

和歌太夫によると、大阪松島の八千代座に出ているときに「マキノの先生」が見え、「八百円やるから、カツドウに来い」と誘われた。当時の月給は三百円で、約3倍ということで、「そら行きますがな」ということだった。これを叔父の徳三郎に伝えると「お前、泥芝居に行くんか、泥芝居の役者ンなんのか!」と怒鳴られ横面を張られた。祖母や親戚中から反対され、勘当同然でマキノへ入ったというが、母親だけは「月給八百円」の条件で大賛成だった。

マキノへ行くと、「この中のどの役をやってみたい?」と雑誌「少年倶楽部」を渡された。嵐が選んだのが鞍馬天狗である。天狗役が決まるとマキノ監督は「俺がつけたる」と、剣の持ち方から立ち回りまで、殺陣の特訓をしてくれた。
芸名は「嵐はそのままでええ、こうつと名前やな、叔父貴からもらえ、お前顔が長いよって長三郎にしとけ」と「嵐長三郎」の名を与えられた。片岡千恵蔵に一日遅れた入社だった。

4月、マキノ御室撮影所製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。脚本は売り出し中の山上伊太郎、撮影は名キャメラマンと謳われた三木稔と、マキノ最高のスタッフで固められたデビュー作だった。それから鞍馬天狗は彼の当たり役となった。
以降マキノの看板スターとして、在籍一年半足らずで27本の映画に主演。『鞍馬天狗』シリーズのほか『鳴門秘帖』『百万両秘聞』でもヒットを飛ばした。

1928年(昭和3年)4月、『新版大岡政談 前編・中篇』の2作で丹下左膳を演じたのを最後に、マキノから独立、嵐寛寿郎プロダクション(略称:寛プロ)を設立。この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の宗家の名跡である「璃寛」からとった「嵐寛壽郎」を名乗り、以来生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神の血煙』をもって寛プロは解散した。

1929年(昭和4年)2月、東亜キネマ京都撮影所にスター級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』でむっつり右門を初めて演じ、鞍馬天狗と並ぶ当り役となった。

1931年(昭和6年)8月に東亜キネマ京都撮影所長の高村正次とともに東亜を退社。
第2次寛プロを設立し、7年後の解散までに鞍馬天狗、むっつり右門、銭形平次を演じたほか、山中貞雄を抜擢して『磯の源太 抱寝の長脇差』『小笠原壱岐守』にも主演。寛プロ時代の代表作との声も高い。

しかし、1937年(昭和12年)8月に寛プロ解散。剛毅な性格だったアラカンは、この「寛プロ」合流に前後して新興キネマの身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の永田雅一が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い」との永田の一言に激怒。
永田と衝突した結果、アラカンは自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の森光子は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです」と述懐している。

1942年(昭和17年)、日活が戦時統合により大映に改組されたことで、大映京都撮影所へ移る。同年の『鞍馬天狗』(伊藤大輔監督)が大映移籍後の主演第1作となる。同作の立ち回りでは「裾さばきが乱れないこと」が特徴とされ、「林長二郎と同じく女形出身だから」と、どんなチャンバラでも裾の乱れは見せなかった。同作で伊藤監督は、アラカンに百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです」と評している。

1956年(昭和31年)、新東宝に入社。新東宝では数少ないスター俳優として活躍し、翌1957年(昭和32年)公開の『明治天皇と日露大戦争』では明治天皇を演じる。
同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、アラカンは余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。
続けて『天皇・皇后と日清戦争』『明治大帝と乃木将軍』でも明治天皇を演じている。ほか、『大東亜戦争と国際裁判』では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』では神武天皇を演じるなど歴史上の大人物を演じることが多かった。

1965年(昭和40年)からは、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。
1968年(昭和43年)、今村昌平監督の『神々の深き欲望』に出演。毎日映画コンクールで男優助演賞を受賞した。
この時期からテレビ界にも進出し、テレビドラマにも時折ゲストで出演した。それらのいずれも脇役ながら俳優としての存在感は健在だった。
最晩年も活躍し続け、『男はつらいよ 寅次郎と殿様』や『ダイナマイトどんどん』などに出演。後者と『オレンジロード急行』の演技では第2回日本アカデミー賞優秀男優賞を受賞している。

1979年(昭和54年)夏ごろに脳血栓で倒れ京都市西京区の自宅で療養していたが、1980年10月21日に死去した。享年77。
 

幼少時より、祖母から踊りを仕込もうとしたが、これを嫌って琵琶湖疎水で泳いでばかりいた。このため中耳炎を患い、以来、左耳が難聴となる。若いころから無口だったのはこの難聴のせいだった。
私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していた。最晩年も40歳年下の久子夫人を伴侶としていた。アラカン自身は「モテたんちゃう。買いに行ったん。映画(界)入ったら月給は三倍やでん。使い道あらへん。これがいかんでしたわ。それから獄道ですワ」と語っている。稲垣浩は求婚した女性が、アラカンの「何番目かの」愛人だったことがあったという。
 

金銭面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかった。一つには、前述したように離婚のたびに全財産を譲り渡していたこともさることながら、もう一つは面倒見のよさからだった。戦死した「寛寿郎プロ」時代のスタッフの仏前へ、自費で一軒ずつ全国を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心双方の援助も惜しまなかった。新東宝の最後までつきあっているのもスタッフを捨て置けなかったからだった。
その反面、自身は贅沢が嫌いで、衣装道楽も縁がなく、和服も2、3着より持たず、背広も靴も既製品、煙草はマッチ派だった。戦前の全盛期でも自宅から撮影所まで自家用車を使わず京福電鉄嵐山線を利用、戦後はもっぱら円タクを使った。
「映画会社の社長はん、ゴルフする暇あったらパチンコせいとは言わんが円タクに乗るべしや」と語っている。円タクで支払いの際に「ワテ嵐寛壽郎ダ」と言えば運転手がファンになる、これが庶民派のアラカン流だった。
付き人の嵐寿之助は「盗人に入られても、“警察に届けたらあかんで、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね。…“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です。」と証言している。

寛寿郎プロ解散直後、本気で雲隠れに洋行を考えていたが、洋食嫌いの理由で断念した。
かなりの偏食で、洋食は一切受けつかなかった。アラカン自身ナイフとフォークを使って肉を食べる習慣が野蛮なものと嫌悪し、味の面でも「ナマリブシみたいなん切らしたら死んでしまいます。トンカツぐらいでんな。西洋料理で口にあうのは。」と語っている。日本料理専門だが、それも火が通ったものだけで、刺身も寿司もうけつけなかった。

1939年、琵琶湖の天寅飛行場から大阪湾へ、テスト飛行に無事合格、世間をアッと言わせた。アラカンは運動神経が良く、飛行機だけでなくオートバイや自動車も運転できた。稲垣浩によると、大スタアの中で、自動車に乗れる人は当時ほとんどいなかったという。

嵐寛の立ち回りは「見せる立ち回り」という点で、「アラカンに勝る剣戟スタアは戦前戦後を通じていない」とまで評された。「バンツマ(阪東妻三郎)の立ち回りは悲愴豪壮、大河内傳次郎八方破れ、アラカンは「さばきの美事さ」と定評がある。
「必殺の白刃を息もつがせず手首の返しで繰り出してくる、切先が銀蛇のようにしない、上段から下段へなぎ立てる。胸元まで来ていま一つのび、蝶のごとく舞う」。

1929年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクス夫妻が来日の折、滞在先の京都ホテルでアラカンは英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす。」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。

アラカンが『網走番外地』の老侠客、鬼寅親分を当たり役としていた1960年代に、趣味の競艇に行ったところ、組関係者から丁重に挨拶され、「どうぞ」とわざわざ貴賓室に案内された。アラカンは「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、毎度心地よう利用させてもろてます」と喜んでいた。

鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、アラカンを感激させたほどの気の入った役だった。
『直撃地獄拳 大逆転』(1974年)でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざアラカンに鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。

1968年の『神々の深き欲望』では、今村監督にいきなり「あんたは今まで主演ばっかりやっていたから、人の顔見てものを言わない。自分のアップだけしか考えていない」、「役者は相手を見てものを言うもんや。相手と対話して初めて映画になる。お前は一人で目ェむいてる」と言われたという。ここでアラカンは「なるほど」と、初めて映画というものがわかり、開眼したのだという。映画生活42年目にしてアラカンは、この映画で初めて賞を受賞した。
この映画は本来は早川雪洲が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。
他の俳優を探していたところ、アラカンが脚本を読んで、監禁中である実の息子の嫁を犯して、彼女を妊娠させ子供を産ませたという鞍馬天狗とは正反対の汚れ役を気に入り、出演を快諾したとの事である。この作品の撮影環境はかなり苛酷なもので、アラカンは耐え切れず何度も現場放棄をしたという逸話を残している。

『男はつらいよ 寅次郎と殿様』は、『トラック野郎』と同時にオファーがあり、迷った上での出演であった。
甥のAV男優山本竜二によると、どちらに出演すべきか相談を持ちかけられ、山本は、「そら先生、寅さんでっしゃろ。国民的映画ですがな。」と背中を押してみたが、「せやけど、菅原文太には、新東宝の義理があるさかいなぁ…」と気に掛けていた。が、「後で、トラック野郎にもちゃっかり出演してはりました。」と山本は語っている。

水木しげるの漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、鬼太郎とともに妖怪を退治したこともある。

マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級・娯楽版、お子様ランチ」などと差別された一面もあった。
アラカンは当たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大当たりとりました」と語っている。
そんなアラカンが一番怖かったのは大河内傳次郎だったという。「私の時に限って真剣使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり気構えが違うんですな。いつも大河内さんは近藤勇の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」。

その後、戦中戦後の混乱や空白も乗り越えて、約30年にわたってアラカンは数々の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに不満を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映画館が被った損失の補填というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。
このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次郎を非難している。

人物伝としては、この奇骨の人物を愛した竹中労による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。
アラカンの、鞍馬天狗についで有名なキャラクターは38本撮ったむっつり右門である。唇をへの字に曲げて腰を開いて、さァ来いと構えても、右門は「ヤー」とも「オー」とも言わない。無声映画であるから声は聞こえずともよいが、何も言わない顔がかえって迫力があると大いに受けた。
アラカンは子供のころからアメリカの喜劇映画が大好きで、「自分がむっつり屋だから」と、「むっつり屋」のキートンがごひいきだった。
アラカンは右門について、「これも自分に合うと思いました。昔はしゃべるのがイヤで、いつも、むっつりやったから。キートン、バスター・キートン、あの人ちっとも笑いまへん。これでいこう! と思いました、はい」と語っている。

1928年に、マキノ映画のスターたち6人が独立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロは対抗意識が強く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き残ることとなっている。
自らが映画プロデューサーを務めたこの寛寿郎プロでは、1938年公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画は一生の思い出ドス。」と語っている。
この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが阪東妻三郎に信長役での出演を頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた。
稲垣浩は「山中貞雄を発見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという。
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このアラカン演ずる殿様の執事が、三木のり平。東宝の社長や駅前シリーズで人気を博した。「社長シリーズ」での「パァーッといきましょう」は、流行語にもなった。当時53歳の三木の演技力はこの映画の中でも見事に輝いている。居間でアラカンが怒って真剣を取り出すシーンの渥美も含めての、三者の演技は絶品だ。

三木のり平
(1924年4月11日 - 1999年1月25日)日本喜劇人協会第5代会長。本名、田沼 則子(たぬま ただし)。
1942年、旧制日本大学第一中学校を卒業。日本大学法文学部芸術学科演劇科に入学し、同期生には映画科に小沢茂弘・沼田曜一がいた。青山杉作研究所、俳優座を経て、帝劇で『真夏の夜の夢』に端役で出演していたが、手に持った蝋燭の火が自らの衣装に燃え移り芝居を混乱させたために青山圭男から新劇の世界を追放され、三木鶏郎グループに入り、コメディアンを目指す。
当初は本名で舞台に上がっていたが、三木鶏郎の提案により芸名を「三木則子」とする。
しかし、プログラムの印刷業者が則子の「子」の字を「平」と読み間違えたため、プログラムには「三木則平」と表記される。
その後、小野田勇から「『則平』は固いから『則』の字は平仮名がいいよ」と助言されたことを受け、正式に「三木のり平」を芸名とした。

NHKラジオの『日曜娯楽版』に出演する傍ら、日本劇場の舞台に立つ。
1950年、清水金一主演の喜劇『無敵競輪王』で映画デビュー。1954年には森繁久彌、三木鮎郎らと虻鉢座を結成し、注目を浴び、1957年からは、有島一郎とのコンビによる「東宝ミュージカルズ」で活躍する。

1956年、東宝と専属契約し、『のり平の三等亭主』で映画初主演。以後、森繁と共演した『社長シリーズ』や、森繁、伴淳三郎、フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博した。『社長シリーズ』での「パァーッといきましょう」は流行語になった。
「スターは三船(敏郎)、役者は(三木)のり平」と言わしめる程の演技力は大衆的に認知されて評されるほどであった。その演技力で森繁、有島と並ぶ喜劇役者としての地位を確立。

演出家としての顔も持ち、大衆演劇を多く手がけた。特に森光子主演の舞台『放浪記』を1981年から担当したことがよく知られている(没後の公演も「演出」としてクレジットされていた。実質的な演出は「演出補」の本間忠良が担当)。
『放浪記』『雪之丞変化』の演出に対して菊田一夫演劇賞(大賞、平成2年度)。また読売演劇大賞(最優秀演出家賞 第2回 平成6年度)など高い評価を受けた。
森は、自身より年少且つキャリア的にも後輩であるのり平に対し「のり平先生には感謝している」と晩年まで賛辞を贈っていた。
1986年、紫綬褒章受章。1996年、勲四等旭日小綬章受章。

キャラクターのモデルおよび声優をつとめ続けた桃屋のアニメーションCMは、1958年の『助六篇』から1998年の『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、お茶の間に親しまれた。1999年の『大根の運命篇』より、実子で長男の小林のり一が声を担当している。
また、アニメ『焼きたて!!ジャぱん』には、主人公たちの対戦相手として、桃屋のアニメーションの「三木のり平」がそのまま「三木のり平本人」として登場し、ごはんですよ!を使用したパンを制作した。アニメ版の声は青野武が担当した。

映画撮影の際に当時15歳の吉永小百合とキスをした。これが吉永のファーストキスとなった。

1999年1月25日、肝腫瘍のため死去。満74歳没(享年76)。
1月31日に東京都文京区の護国寺桂昌殿で葬儀が営まれ、葬儀委員長は親友である森繁、喪主は実子で長男ののり一が務めた。出棺の際は、遺族の希望により、はっぴ姿の木遣りの先導で行われた。棺にはロイド眼鏡、パズルの本、演出を手がけた『放浪記』などの台本、競馬新聞、たばこなどが納められた。

1944年頃、徴兵検査が一向に来ないのを不思議に思い区役所へ行ったところ、職員が本名の「則子(ただし)」を「のりこ」と読み間違い、女性と思われていたことが判明。慌てて書類を作ったため召集令状が届いたのが終戦の5日前で、入隊予定日が戦後の8月18日だったという。
風貌や芸風が似ていることから大村崑と間違えられることがあるが、実際、のり平は大村を可愛がっており、『とんま天狗』では大村の父親役で出演した。その際、「鼻メガネ」の芸も大村に譲っている。

空襲で焼け出された時期には佃政一家に身を寄せていたことから、博打にも相当に強かった。志村けんは、三木が出演した『雲の上団五郎一座』を見てコメディアンを志したという。

お話戻って
やがてアラカンはとらやを訪ねる事となるが、その登場と周りの反応、そして寅が戻ってきて身分が判明した後の「下がれー、下がれー」は抱腹絶倒の面白さ。やがて真野響子がアラカンの探していた嫁だと判明、再会へと進んでいく。アラカンと真野響子が初めて会うシーンはもう少し監督得意の「泣き」の方へウェイトを置いても良かったのではないかと思える。

後半、三木のり平が多分愛人を伴ってとらやを訪ねるシーンがあるがこれが傑作の面白さだ。最後にとらやから三木が立ち去るとき、「・・・多分躓くな」と思って見ていると、案の定見事に期待を裏切らずに躓いてしまう。当時「スターは三船(敏郎)、役者は(三木)のり平」と大衆的に認知されていたのが頷ける。

やがて真野響子に再婚相手が居る事が判明、寅は振られて旅に出て、再び大洲でアラカンの世話をしているところでエンドとなる。

 

今回マドンナの印象は薄いが、渥美清・嵐寛寿郎・三木のり平の個性的な演技を堪能出来るこの回は、今から考えれば日本映画の歴史的にも、とても貴重な一本となっている。