男はつらいよ 私の寅さん
★★

松竹/107分/1973年(昭48)12月26日公開 <第12作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    佐藤公信
共演-倍賞千恵子・松村達雄・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-岸恵子・前田武彦・津川雅彦


併映『大事件だよ 全員集合!!』監督:渡辺祐介 出演:ザ・ドリフターズ
動員数241万9000人/ロケ地・熊本県天草・阿蘇、大分県別府市TOP


★「男はつらいよ」シリーズ第12作目。

シリーズ中で最高の観客動員数241万人を動員した作品。それまでの柴又慕情から恋歌、忘れな草と続いた作品の面白さに伴う動員がついに頂点に達したという事だろう。しかし残念ながら本作はシリーズでもかなり面白みの少ない作品となっている。

まず構成が中途半端だ。
始まりはいつもの様に寅が帰郷する訳だが、その日はとらや一家が翌日九州三泊四日の旅行に出発する前夜である。当然寅は連れていけないので拗ねる。旅行中も旅先からの電話を待ちわびている。一家が帰ってくると食事の用意が出来ていて風呂も湧いている。寅の優しさが出る良いシーンではあるが、ここまでで映画が始まって約40分経過している。マドンナは一切絡んでこない。

多分山田洋次監督はスタッフ・キャスト思いなので、セット撮影が中心のとらや一家を、慰労も兼ねて九州ロケへ連れていくために、このような筋運びを考えたのではないのだろうか。既に松竹のドル箱になっていたシリーズ、会社もそこら辺は了解していたのだろうと推測する。

この後仕切りなおしで前田武彦の登場とともに後編の物語が始まる。
マドンナ役の岸恵子だが、あまり魅力的に描かれていない。これは設定の問題だと思うが、寅との最初の出会いが喧嘩する関係から始まっている。翌日、まだ怒っている寅の前に、岸恵子が花を持って現れる。で、いつもの様に寅は惚れてしまう訳だが、ここが弱い。岸恵子は画家の役なので最初の出会いが絵の具だらけの薄汚い服を着ていたのだが、とらやに再登場した時は鮮やかな色のワンピースを着ているとかの落差があれば、寅が惚れるのを納得できるのだが、あれだけ怒っていた寅がアッという間に改心してしまうのはとても不自然だ。そして何回も繰り返させる、寅を「熊さん」と言い間違えるギャグもしつこい。

その後の流れもしっくりこない。
とらやで岸と画商の津川雅彦が待ち合わせをして深刻な話をするシーンが有る。津川からは「・・・あなたは別なんだ」とか「どうして承諾してくれないんですか?」などの思わせぶりなセリフが発せられる。画商の津川が、あまり売れない岸の絵を買ってあげて結婚を迫っている、ふうに捉えられないこともない。

津川が去ったあとに岸は「嫌なやつ!」と憤慨する。寅はそれを聞いて安心する。観客側も岸は津川を嫌っているんだと納得する。しかしその後、岸が恩師の絵画の先生宅を訪れるシーンが有る。そこで恩師から「・・・君、結婚するらしいよ」と教えられる。どうも岸はその相手が好きだったようだ。岸が、誰と結婚するのかと問うと「相手は金持ちの娘らしい。まあ彼らしいけどね」とのやりとり。
最初見た時、その相手は津川なのだろうかと混乱してしまった。再度見返して津川の役名が「城」で、岸の片思いの相手が「三田」の役名だと分かって別人だとわかった。

この後岸は失恋したといって寝込んでしまう。岸の惚れた相手は、映画の中に現れていないので見る側は岸の失恋に同情できなく戸惑うばかりだ。

やがて岸は寅の恋心に気付き「私・・困るのよ」と拒否。寅は旅に出て行く。
 

その後のさくらと岸の2ショットでの岸のセリフ、「いつまでも良いお友達で居たかったのに、馬鹿ね寅さん」

岸は、最後まで身勝手な冷たい女の印象を受けた。

 

以下Wikiより転載

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岸 惠子(きし けいこ、1932年8月11日- )は、女優・文筆家。岸恵子の表記もある。身長161cm。舞プロモーション所属。映画の代表作は『約束』『雨のアムステルダム』『君の名は』など。


神奈川県横浜市神奈川区生まれ。

1945年5月の横浜大空襲で被災。横浜市南区庚台に、1955年頃まで家族と居住、その後、同市神奈川区妙蓮寺に転居。高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業。

もともとは小説家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち、田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ、断ったが後に「本物の女学生が欲しい」と頼まれて1本だけの約束で、1951年に大学入学までという条件で松竹に入社し、映画『我が家は楽し』でデビューするがヒットしてそのまま女優になった。

1952年には『坊ちゃん重役』で鶴田浩二と佐田啓二の相手役を務める。5月、松竹の看板スターであった鶴田が、戦後のスタープロ第1号となる新生プロを設立して独立。第1作として、新東宝配給『弥太郎笠』の制作にあたり、鶴田の相手役のヒロインとして岸にオファーを出すが、松竹は拒否したため岸は辞表を出す。結局松竹が折れて、岸は映画に出演。続いて、新生プロの『ハワイの夜』でも鶴田と共演しヒットとなる。この頃、鶴田との恋愛関係が報道されたが、松竹に強引に別れさせられた。

1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道のあまりの寒さに、私物のストールを使用した岸のアドリブである)。岸恵子自身は、『君の名は』ばかりが長期間話題にされることを疎ましく感じ続けた。以降、松竹の看板女優となった。

1954年には有馬稲子、久我美子とともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。1956年、フランス・日本合作映画『忘れえぬ慕情』に出演。
1957年、『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピと結婚。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。以降、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた。この頃に、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトーらと親交を持つ。また1963年には1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した。

1972年には映画『約束』で萩原健一と共演。『雨のアムステルダム』でも萩原と共演した。萩原健一との関係は、彼が「お姉さん」と呼んで慕っていた通り友人関係であり、一部メディアによる恋愛関係との記事は誤りである。萩原は岸の母も慕っていた。1980年代初頭までは萩原が岸の家に遊びに来ていたが、その後は1990年前後にロビーで偶然再会したぐらいだという。ただし岸の母が亡くなった2000年前後に、萩原健一は葬儀に駆け付けてくれたとのことである。

1975年、イヴ・シャンピと離婚。娘の親権は岸が持った。市川崑映画への出演は40年に及び、40代後半から60代後半にかけても、市川映画に出演した。1983年には「ペントハウス」誌の創刊号で、後ろ姿のヌードを披露した。
1996年、国連人口基金親善大使に任命された。
2000年、娘や2人の孫息子と暮らしたフランスを離れ日本に戻り、横浜の実家で一人暮らしを始めた。同年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優7位となっている。
2013年3月、自らの恋愛経験を基にオマージュした熟年男女の恋愛小説『わりなき恋』を発表。2014年、小説『わりなき恋』を原作とした一人舞台『わりなき恋』に主演。脚本も自ら書いた。

1957年、25歳のとき、フランス人の映画監督で医師でもある11歳年上のイヴ・シャンピと結婚し、パリへ移住した。
当時はまだ日本人が海外旅行をすることが出来ない時代であり、フランスへ移住する日本人は非常に珍しかった。夫・イヴの母が世界的なバイオリニストだった影響により、「女性は手を大事にしなければならない」という理由で夫から料理をするのを禁じられ、ノイローゼになってしまった。
1975年、41歳のとき離婚、娘は11歳だった。以後今日まで独身。自宅はパリの高級住宅街として有名なサン・ルイ島にある。築400年の家で一人暮らしをしている。男の子の孫が2人おり、娘や孫たちとときどき会っている。 一人娘のデルフィーヌはパリ在住のオーストラリア人の作曲家ウォーレン・エリスと結婚して別居した。


遠縁に前田美波里がいる(前田美波里の母のいとこが岸恵子の母方のいとこの妻の弟)。また、冨士眞奈美も遠縁にあたる(冨士眞奈美の母方の叔母の夫が岸恵子の母方のいとこの妻の弟)。