男はつらいよ 寅次郎夢枕
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松竹/98分/1972年(昭47)12月29日公開 <第10作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    佐藤公信
共演-倍賞千恵子・松村達雄・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-八千草薫・米倉斉加年・田中絹代・津坂匡章


併映『舞妓はんだよ 全員集合!!』監督:渡辺祐介 出演:ザ・ドリフターズ
動員数211万1000人/ロケ地・長野県奈良井

第28回毎日映画コンクール・監督賞/山田洋次
第1回文化庁優秀映画TOP

 

★「男はつらいよ」シリーズ第10作目。

10作目にして初めて寅の恋が成就しそうになる。
この回のタイトルバックの主題歌は今までのとは異なり、少し歌声にエコーが付加されたいる。多分新録音なのではないだろうか。

冒頭、とらやの玄関でさくらの友達の嫁入りシーンがある。今回の八千草薫演ずるお千代がさくらの幼馴染なのでその伏線でもあるのだろうが、このお嫁さん、実は佐藤蛾次郎の新婚の奥さんだとの事。山田洋次は役者としての蛾次郎を高く買っていたようで、粋なはからいである。

八千草薫はこの時41歳。
幼少時に父を亡くし、母子家庭で育つ。思春期がちょうど戦時中であり、自宅も空襲で焼け、「色のある」「夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれた。
聖泉高等女学校在学中に宝塚音楽学校に合格し、1947年に宝塚歌劇団入団。
宝塚入団時の成績は50人中19位。入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としたが、1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫を内・外面とも見事に表現し、絶大な評判と人気を博した。以降は美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡、同年から劇団内に新設された映画専科に所属した。1951年の『虞美人』、1952年の『ジャワの踊り子』等に出演している。

宝塚歌劇団に入団した戦後間もない頃に東京公演で銀座を訪れた際、『お寿司が食べたいわぁ』と何気ない発言が食料事情の逼迫していた当時は周囲から顰蹙を買ったことも。

宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなしており、当時の『お嫁さんにしたい有名人』の統計で、たびたび首位に輝いた。

1954年の主演映画『蝶々夫人』は、元々は有名なオペラとして世界各地で上演されているが、日本文化の描かれ方がめちゃくちゃで、映画を通じて、世界に正しい日本文化やこの作品の情景を伝えようという旨で制作された。そのため、日本家屋のセットはすべて日本から空輸して、現地(チネチッタ)で渡伊した日本人スタッフ(東宝のスタッフ)が組み立てた本格的なもの。衣装なども空輸した。もちろん、八千草もヒロイン像にふさわしい「日本人女性の象徴」としてのキャスティングである。


1957年5月31日付で歌劇団を退団。退団後はテレビドラマでのおっとりとした良妻賢母役が好評を得る。一方、『岸辺のアルバム』での家族に隠れて不倫する主婦役で従来のイメージを覆し、テレビドラマ史に残る名作と評された。

私生活では1957年に映画監督の谷口千吉と結婚した。人気・好感度絶頂の八千草と、親子ほどの年の差があり、しかも3度目の結婚となった谷口の組み合わせは当時、多方面で話題・波紋を呼んだ(夫婦に子はなかったが、おしどり夫婦として知られ、結婚50年目となった2007年に死別するまで連れ添った)。

「宝塚時代の経験が、仕事はもちろん、趣味の山歩きでも活きている」と述べており、自然環境保全審議会委員を務めたこともある。
テレビドラマ『赤い疑惑』では、主演の山口百恵のスケジュールの都合で細切れ断片的な収録を余儀なくされたことに納得できず、自ら途中降板した。

1977年、ヤマハ・パッソルの広告に起用。前年、ホンダが商品化した原動機付自転車・ロードパルは、ソフィア・ローレンを起用して爆発的ヒット。競争相手であったヤマハ発動機は、あえて日本人女優である八千草薫に白羽の矢を立てた。当時、八千草は免許を所有していなかったため、ヤマハの免許センターで取得。実際の撮影は、オーストラリアで行った。「やさしいから好きです。」というキャッチフレーズは、ヤマハとホンダの販売競争を激化させるきっかけにもなった。


2010年3月中旬にドラマの撮影中に転倒し、右膝蓋骨を負傷。当初は全治3週間と診断されていたが症状が悪化し、5月開催の第19回日本映画批評家大賞授賞式を欠席した。
2014年、古巣・宝塚歌劇団創立100周年を記念して設立された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人の一人として殿堂入り。


2017年の末に膵臓にがんが見つかり、2018年1月に手術を受ける。予後は良好でドラマ収録や舞台『黄昏』の主演もこなしたが、2019年に入って肝臓にがんが見つかったため、2019年4月放送開始予定のドラマ『やすらぎの刻〜道』の主演を降板し、休業して治療に専念する。
同年2月9日に発表した。5月26日、理事を務める日本生態系協会のイベントに出席、がんを発表後初めて公の場に登場した。
2019年10月24日午前7時45分、膵臓がんのため東京都内の病院にて死去。88歳だった。

さてお話戻って

不動産屋での一騒動があって再び寅はとらやに帰ってくるのだが、本人は改心して仕事に打ち込み身を固めようとする。今までもこのようなシチュエーションはあった訳だが、とらやの人々や御前様までが何の疑いもなく信じてしまうのは少し違和感があった。

この回は米倉斉加年演ずる東大の助教授と、寅とのやり取りが抱腹絶倒の面白さだ。
フーテンの寅がインテリ教授をからかうのは痛快だ。
お千代とさくらやをからかう寅は実に活き活きとしている。蛾次郎がいつも寅とお千代の間にいるので、観客は安心して二人の仲を見ていられる。

米倉斉加年はこの時38歳。
高等学校ではバスケットボール部で主将を務めた。もとの本名は正扶三(まさふみ)だったが、幼い頃に旅の僧侶により「斉加年」と命名されて以降この名を名乗り続け、後に戸籍上も改名した。

大学在学中に演劇に目覚め、中退。1957年に劇団民藝水品研究所に3期生として入る。1960年には研究所同期の岡村春彦や常田富士男らとともに劇団青年芸術劇場を旗揚げする。劇団民藝に決別宣言をし、「安保闘争のデモは皆勤だった劇団」であったという。
宇野重吉のアドバイスにより、1965年に劇団民藝に復帰(劇団史としてはこのときに入団扱いとなっている)、2000年に退団するまで演出家としても活動した。

繊細な奇人芸術家・善良だが内気なインテリといった役柄を得意としており、特にNHKへの出演は多く、大河ドラマではたびたび大役を演じた。
『風と雲と虹と』での国司でありながら将門の乱をたきつける皇族・興世王役での怪演をはじめ、『花神』での桂小五郎役は、本来二枚目人気スターの当たり役なだけに(しかもこのドラマでは準主役的ポジション)、民放や現在のNHKでは考えられない起用であったが、高い知性やリーダーシップと神経質さを併せ持つ桂像を構築して見せた点など、同シリーズでの功績は大きい。『明智探偵事務所』では準レギュラー・「博多訛りの」怪人二十面相役を務めた。

善人としての持ち味は山田洋次がよく活かし、『男はつらいよ』シリーズには2度、恋敵役で登板したほか、カメオ出演風に数回顔出しした(実質、準レギュラー)。山田監督の愛弟子・高橋正圀脚本の『僕の姉さん』でも倍賞千恵子の夫となる美術教師として準主演だった(こちらも善良なインテリキャラクターだった)。
他に『沖田総司』の近藤勇役、『動乱』の高倉健、吉永小百合に次ぐ三番手ポジションである憲兵役などが映画での大役がある。

第1回、第23回紀伊国屋演劇賞、第11回「新劇」演技賞。

米倉は役者のほかに絵本作家、絵師としての活動も行っており、ボローニャ国際児童図書展にて、1976年の『魔法おしえます』と1977年の『多毛留』で、2年連続グラフィック大賞を受賞したほど(この展覧会で大賞を2年連続で受賞したのは米倉が初めて)。角川文庫の夢野久作作品など、表紙やイラストも多く手掛けている。

著書『おとなになれなかった弟たちに…』は、中学1年生の国語教科書(光村図書)に採用されている(本文・挿絵とも米倉によるもの)。

2014年8月26日、知り合いの結婚式に出席するため、出身地である福岡市に滞在中に宿泊先のホテルで腹痛を訴えた後に倒れて救急車で搬送さ、同日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため、搬送先の同市内の病院で死去。80歳没。
通夜・葬儀は、近親者や親族のみで執り行われ、10月13日にお別れの会が開かれた。

そして再びお話戻って

映画の後半、本作のクライマックス、公園での二人のやり取りは絶品。

お互いの勘違いからお千代の突然の告白を聞いてしまう寅の、腰を抜かしてしまうリアクションも素晴らしい。観客としては歯がゆい限りだがここで寅が身を固めてしまったら「男はつらいよ」は終わってしまうのだから我慢、我慢。
ラストのとらやの団欒でのお千代の言葉を、妹のさくらのみが得心するのも良いシーンだ。

日本の失われていく田園風景や、夕暮れの明かりの漏れた通りで遊ぶ子供達など、エキストラを丁寧に配置して蒸気機関車の走る姿を遠景に写し出す、その丁寧な画面作りはこの映画が松竹のドル箱シリーズとして定着して、予算と製作日数に余裕があるからこその賜物だろう。